暖かくなりましたなぁ。
ふるさとしずおかにも、梅や桃や桜が咲く季節が訪れました。
えー、ということで、きょうもふるさとしずおかのよしなしごとを。
ふるさとしずおかは駿府に古くから今も残る『安西』『安東』という町名。
これ、有名な話ですが、安倍川の西、東という意味なんだそうな。
つまり、安倍川の西にあるのが『安西』で、東にあるのが『安東』というわけ。
しかし、どういうわけか、現在は『安東』も『安西』も安倍川の東にあるんですよねぇ。
古来から、ふるさとしずおかを流れる安倍川と藁科川は、灌漑用水や生活用水として人々の生活を潤す反面、大雨のたびに氾濫を起こす厄介な川だったといいます。
なにしろ勾配の急な川で、急流が多いといわれる日本の河川の中でも、とりわけ流れの急な川だったといいます。
江戸に幕府が開かれ、将軍職を息子 秀忠に譲ると、家康公は、駿府入城に伴い駿府城を拡張再整備するために天下普請を発します。
記録によると、薩摩藩主 島津忠恒公は、遠く西国から500石積の船150艘に石や材木を満載して駆けつけたといいます。
そして、市中を流れる安倍川、藁科川の流れを西へ逃がす長大な堤防を築きました。
いわゆる薩摩土手です。
土手は、井宮の妙見さんから始まり、弥勒へ抜けます。総延長 実に約4㎞。
これ以前の安倍川は、賤機山の南端をかすめ、駿府城を左に見ながら城の外郭を果たし、今の市中のど真ん中を八幡方面に流れていましたが、薩摩土手の完成によって、安倍川、藁科川は一つになり、市中を離れ西に流れを変えます。
賤機山南端、浅間神社鳥居前に『宮ヶ崎』という町名がありますが、これは『宮の岬』が転じたものだといいます。当時、あの辺りは安倍川に突き出した岬だったんですねぇ。
現在は、土手の大半は取り崩され『さつま通り』となり、僅かに、北の妙見さんから水道町の水門あたりまでの250mが当時の姿をとどめているにすぎません。
堤の途中にある、大きな石碑とお稲荷さんが、当時の天下普請の壮大さを後世の私たちにに語ります。
で、きょうのおまけは井宮の中村屋。
私の家では、子供の頃から親子丼といえば中村屋でした。
本店は常磐町 宝台院前。
そのむかしは二丁町で商いをしていたという、古い古い暖簾です。
少し甘めの味と、折箱の香りがあうんですよ。ほんとに。
あとね、この店は親子丼だけでなく焼鳥も極上です。