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裂織と蒲原宿、ゆくりなく人は出会う、のココロ。

裂織(さきおり)という織物技術があります。
江戸の昔、まだ綿や絹などの繊維製品が貴重であった時代に、古くなった布を裂き再生する技法やそれによって新たに生まれ変わった布や着物を指す言葉です。
私たちのふるさとしずおかにもありました。
駿河裂織倶楽部。
東海道は旧蒲原宿に、この伝統の技法を今に伝える活動をするNPOがあります。
ということで、きょうもふるさとしずおかはいいねぇという話をひとつ。

IMG_3022お江戸日本橋から数えて15番目の宿場 蒲原。
普段通り過ぎるだけのこの小さな町は、江戸の昔は結構立派な宿場でした。
広重の東海道五拾三次の「雪の夜」にも描かれ、当時は全国的にも有名な町だったのです。
この宿場の旧本陣前に、19世紀初めの安政年間に建てられ、今もその姿をとどめる旧上旅籠 和泉屋が残っています。
蒲原宿には、最盛期には大小合わせて40もの旅籠が軒を連ねていたそうですが、安政の大地震にも耐え、180年の時を経て今も残っているのはこの和泉屋だけです。
いにしえの風情を今に伝える和泉屋は、現在は旧東海道を散策する人々に『お休み処』として親しまれ、06年には国の登録有形文化財となりました。

IMG_3085登録有形文化財といえば、蒲原にはもうひとつ。
旧五十嵐邸。
江戸期~明治に建てられた町屋が元ですが、大正、昭和と3度の改築で洋館の外観をまとった歯科医院を兼ねた屋敷です。
ここね、非常に面白い。
広さや造作にも感心させられますが、欄間や襖絵、床の間の部材など、見どころは尽きません。

IMG_3021 先のNPO駿河裂織倶楽部は、その本拠を『お休み処』に置いています。
代表の朝原さんは元々は絵織物作家ですが、親子三代にわたって駿河裂織の伝承活動を続けています。
そうそう、『お休み処』ではもうひとつ出会いがありました。
東海道の道程およそ500㎞を走破する『東海道ULTRA MARANIC』を主宰する阪本さん。
IMG_3033きっと、当時の旅籠って、こんなふうにゆくりなく人が出会い別れるところだったんでしょうねぇ。

おまけは、蒲原宿『お休み処』で売っている『焼き梅』。
顔が曲がるほど酸っぱいですが、まだ夏日が続く晩夏にはピッタリです。
血液サラサラにもなるし。

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東の大王、のココロ。

70回目の終戦の夏を迎え、この夏は特に先の戦争を問うきっかけがここかしこに見られます。
当時の日本の事情によれば、天皇がやむを得ず『開戦の詔勅』をお示しになったのは1941年12月8日。皇紀でいう2601年。終戦の詔勅の約4年前のことです。
つまり、神武天皇が日本を統べて、今年で2675年が経ったとういわけなんですね。
すごいなぁ。実にすごい。

IMG_3036 しかし、皆さんご承知のように、日本が統一された年代は今の科学では正確には分かっていません。
よく耳にする『倭国』。漢の時代の書物によれば、『倭国』は紀元前200年ころには既に成立していて、その傘下に100余の国を従えていたと記されています。
少し時代が下って西暦200年前後。倭国は勢力範囲にある30余の国を女王が束ね、その都は女王の国 邪馬台国に置かれていたといわれています。
そう、女王 卑弥呼です。
この邪馬台国の所在も、歴史上の論争を生んでいます。畿内にあったのか、それとも九州にあったのか。
しかし、統一日本の母体としての存在感はゆるぎないものですが、畿内、九州のいずれにあったにせよ、それは日本の西のこと。
では、その頃の日本の東側はどんなだったのでしょう。

IMG_3038 先ごろ、ふるさとしずおかは沼津 東熊堂で驚くべき発見がありました。
国道246号線を延長し同地近くで国道1号バイパスと連結する都市計画道路、いわゆる沼津一色線の建設中、その建設予定地に東日本最大の古墳が見つかったというのです。
この古墳は、西暦200年代の前方後方墳で東国の王を祀ったものだと考えられています。
ある説によれば、卑弥呼の最大の敵、狗奴国の卑弥弓呼(ヒミココ)とも。

私は、この古墳に祀られた人物は東国の縄文人の王なのだと考えました。

ふるさとしずおか=スルガの地に、縄文人=倭人の国家が存在し、西から勢力を拡大する邪馬台国に対し、それに比肩する強大な国家を築いていたのだと。
小さな神社の境内脇に、まるで時の流れなど意に介さぬように佇む墳丘を眺め、そんな悠久の昔に思いを寄せた一日でした。

21世紀になってこんな発見があるくらいですから、もしかしたら、ふるさとしずおかは
私たちが思うよりももっともっと奥が深いのかもしれません。

FullSizeRenderさて、きょうのおまけは、沼津は大岡にある『やくみや』のワンタンメン。
大将は若いですがイイ仕事してます。
鶏と魚介のダブルスープが見事に融合。ワンタンも牛肉で手が込んでます。
どうりで混んでるわけだ。
おススメは細麺ですが、太麺もイケます。
どうか、どなたさまも急ぎご賞味あれ。

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ペリーロードとお吉、のココロ。

えー、きょうもふるさとしずおかはいいところだねぇってお話をひとつ。

ふるさとしずおかの観光地といえば伊豆半島。
いいお湯、蒼い海、蝉しぐれの山、それに新鮮な海産物。
まさに、夏休みの代名詞でしょう。
その南端近くに、幕末の一時期、日本全国の注目を集めた町があります。
下田市。
大人達のお盆休みは終わってしまいましたが、きょうは、その下田市のお話を少しだけ。

下田は、江戸の昔から廻船の風待ち湊として栄え、『伊豆の下田に長居はおよし 縞の財布が空になる』と唄われるほど賑やかな町だったそうですが、1854年に日米和親条約締結とともに開港され、59年の横浜開港までのあいだ、文字通り日本の海の玄関として歴史の表舞台に名を刻みました。
IMG_310156年、市中の玉泉寺に米国総領事としてタウンゼント・ハリスが赴任しますが、激務と慣れない日本の生活で体調を崩し看護婦のあっせんを求めます。
白羽の矢が立ったのは、当時下田一といわれたお吉という名の美しい芸妓でした。
後の人がいう『唐人お吉』です。
(写真は、八幡山 宝福寺のHPから拝借しました。)
奉公は、3日とも3ヶ月ともいわれる短い期間でしたが、このことがお吉のその後の人生を狂わせました。

IMG_3068はじめは同情を寄せていた周囲の人々も、十分な手当てを受け暮らし向きの良くなったお吉に嫉妬し、次第に侮蔑の感情をぶつけます。『お吉は洋妾(らしゃめん)だ』と。
お吉は、年季が明けた後も人々の忌避に晒されながら流転の人生を送り、48歳の時、稲生沢川の淵に身を投げ自らの一生に幕を下ろします。
右の写真は、お吉が40代になってから営んだという小料理屋 安直楼です。
下田は、開国の影で儚く散った一人の女性の足跡を、ここかしこに今も濃く留めています。

 

IMG_3062ところで、下田にはお吉以外にも歩いていける範囲に街を象徴する幾つもの観光スポットが見当たります。
かつての遊郭街は、今では『ペリーロード』と呼ばれる観光名所となりました。

平滑川沿いに700mほど続く石畳と柳並木の小道で、道沿いには古民家や石造りの古い洋館が軒を連ね、過ぎし日の風情を今に伝えています。
たとえば、陶器と喫茶の『風待』は、かつて遊女の通う蕎麦屋だったいいます。

IMG_3060ここね、実にいいお店でね。20年ほど前にも訪れたんですが、その頃はDUCATIの900SSが停めてあったりして。

しかし、この町は時がゆったりと流れているんですねぇ。
20年前とちっとも変らない。

そういえばこの町は、私たちの両親の世代には、新婚旅行の行先としても馴染深いところなんだそうです。

見渡すと、ふるさとしずおかにはいいところがいっぱいあるんですねぇ。

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大旅籠で草鞋を脱ぐ、のココロ。

えー、きょうも、ふるさとしずおかにはこんないいところがあるってお話をひとつ。

東海道の宿場は、お江戸日本橋を出発して最初が品川、次いで川崎と続き、
53番目の大津を最後に京は三条大橋の終点を迎えますが、
わがふるさとしずおかには、11番目の三島から32番目の白須賀まで、
実に22もの宿場町が存在しました。

きょうは、そのうちの21番目、岡部宿のお話。

この岡部宿。今もその姿を街道筋に残しています。

IMG_3018旧東海道を進むと、町の中ほどに本陣跡、そしてその脇に資料館として蘇った大旅籠 柏屋(かしばや)が見えてきます。
この柏屋では、当時の旅人の様子が再現され、望めば手甲脚絆に引廻し合羽を羽織った道中姿にもなれます。もちろん、髷と脇差付きで。
いわずもがな、旅籠は今でいうホテルや旅館ですが、今と昔では大違い。
当時の庶民が泊るのは決まって大部屋ですから、知らない同士が枕を並べました。
食事だって煮炊きは材料持込み。
IMG_3017しかし、彼らにとっては、明日以降の長い道中のために体を休める重要な拠り所だったに違いありません。
そして、袖触れ合うも何かの縁、ここで交差する旅人同士の縁は、まさに一期一会だったのでしょう。
いにしえの旅は厳しくもロマンチックだったんですねぇ。
大旅籠を訪れて、そんなことを思いました。

ほんと、ふるさとしずおかはいいところだねぇ。

 
IMG_2859この岡部宿から江戸を目指すと、目前に宇津ノ谷峠が立ちふさがります。
近世までは、細く険しい蔦の細道だけが峠越えの唯一の通行路でした。
切通しの峠道は今も当時の姿をとどめています。

この宇津ノ谷峠には、今も40戸ほどの集落が軒を連ねています。
宿場と宿場の間にある小さな宿を『間の宿(あいのしゅく)』というそうですがまさにこの宇津ノ谷は岡部宿と鞠子宿に挟まれた山間の小さな小さな間の宿です。今も残るこの蔦の細道を行くと、地元でも知る人ぞ知る蕎麦の名店があります。

IMG_2857『蕎麦処 きしがみ』。

きょうのおまけはこのお店。
街の喧騒を離れたいにしえの集落に佇む名店です。
蕎麦は十割、かえしはやや優しく、季節感のある食材がまた旨い。
友人藤原氏のおススメでしたが、噂にたがわぬよき蕎麦屋です。

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夢幻の如くなり、のココロ。

毎日暑いですねぇ。
しばし暑さを忘れて、きょうもふるさとしずおかはいいところだねぇって話をひとつ。

敦盛の一節『人間五十年 下天のうちを比ぶれば 夢幻の如くなり』で思い起こすのは、この舞を好んだ織田信長。
尾張で生まれ、16世紀の日本に嵐を巻き起こした天下人、近世日本のまさに大スターです。
我がご先祖様も、1575年にこの男の擁する鉄砲隊にコテンパンにやられたのでした。

IMG_2810えー、このころの日本の中心は言わずと知れた天子様のおわします京の都です。
尾張の片田舎に生を受けた信長公も、その野望の過程に上洛の計画を持っていました。
つまり、尾張から見て西を向いていたんですね。
上洛を実現し、天下人として仕上げの西国攻めに向かう前夜、京は本能寺でその50年の人生を終えたことは周知のことです。
しかし、焼け落ちた本能寺のどこにも見当たらないのです。
信長公の首級。
本当は、討たれずに落ち延びたのでしょうか。

IMG_2821 いやいや。
あったんです。信長公の首級。

なんと、それはわがふるさとしずおかは芝川町の西山本門寺に400年にわたって厚く祀られていました。
西山本門寺は法華宗興門流の本山。日蓮上人の高弟日興の建立した名刹です。
信長公の首級は、その本堂裏のヒイラギの樹の根元に塚となって今の世に伝わりました。
なにも、将門の首級のように京から飛んできたのではありません。
言い伝えでは、本能寺でともに斃れた者の一族が、炎上する本能寺からその首を持ち出し、この地に首塚を立て、ヒイラギの樹を植えて祀ったといわれています。
IMG_2818一度、行ってみるといいですよ。
澄み渡った空気と木立に囲まれた本堂が、ここを訪れる者の心を清廉にします。
場の空気が、この首塚がホンモノだと教えてくれます。
そう、行ってみるとそんな気になるのです。

ふるさとしずおかには、いろんな言い伝えがあるんですねぇ。

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