投稿者「遠藤貴広」のアーカイブ

「熱い川」と書いて「熱川」と読む、のココロ。

長い間BLOGをお休みしている間に、年は明け、季節は目に見えて冬から春へと急ぎ足で移り変わっています。
ふるさとしずおかでは、伊豆の国は河津の河津桜が見頃を迎えました。
真打ちのソメイヨシノが花を咲かせるのはもう少し先のことですが、その頃には、出がけにコートを羽織るかどうかで悩むこともなくなるでしょう。

ところで、この河津から伊豆急に乗って北へ進むと、3つめの駅が熱川。
きょうのお話はこの熱川のお話。

IMG_4554伊豆半島には大小織り交ぜ30を超える温泉地があるそうですが、この東伊豆の中程に位置する熱川の始まりは室町時代の終わり。それなりに歴史があります。まぁ、私たち世代は熱川といえば温泉というよりは「バナナワニ園」ですな。
それと、子供の頃観たTVドラマの「細腕繁盛記」。温泉旅館に嫁いだ新珠三千代扮する加代が、変革期を迎えた温泉宿を文字通り細腕で切り盛りする物語でしたが、小姑役の富士真奈美にこっぴどくいびられる様が印象的でした。その舞台がこの熱川温泉。

IMG_4563近頃、私はこの熱川をふた月と空けずに訪れますが、残念ながら温泉街自体は伊豆の他の温泉街同様 結構さびれてます。資料によれば、熱川の温泉宿は全部で19。いずれも老朽化が目立ちます。
しかし、しかし。
外から見たのと大違い。実は、熱川は魅力にあふれる温泉街だったのです。
まずはその泉質。大変に温まってお肌にもよろしい。「熱川」というだけあって、温泉街を流れる川にはかつては熱~いお湯が流れていたんでしょうな。
次に肴。特に地のもののサザエは絶品。ほどよい歯触りと甘みが素晴らしい。
そして、観光の拠点としても良い立地。みどころ満載の伊豆高原までは伊豆急で僅か10分。
FullSizeRenderもうもうとあがる湯けむりが、同地が由緒ある老舗温泉街であることを物語ります。
狭地で勾配のきつい細い道、時折目につく仕舞屋が風情を醸し出し、「ああ、これぞ温泉街」としみじみ思うのです。
どうですか?今週末あたり、熱川でお小遣い遣ってみては。

 

IMG_5112おまけは、熱川は奈良本の住宅地にひっそりと佇む 「藤すし」。
清潔な店内と奇を衒うことのない実直な寿司。
いくらでもいけちゃいます。
長く浅草で腕を磨いた大将の職人気質の気持ちの良い寿司に感謝。
つまみも豊富で明朗会計。
こういうお店 好きだなぁ。
これだから、熱川というところは面白い。

 

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ケイキさんと備前 長船康光、のココロ。

ふるさとしずおかは、徳川宗家とはまことに縁が深い。
幕府を開いた家康公は、開府前後に駿府城を居城とし、最後の将軍となった慶喜公は、大政奉還後の30年を駿府で暮らしました。

数週間前、ある縁で身内が刀を譲り受けました。
室町初期の備前長船派の名工 康光の脇差です。
拵も見事なものですが、なぜか鞘には薩摩 島津家の金銀の丸十の紋が。

日本刀は、武器としてその優れた性能が評価されるだけでなく、美術品としても世界中の愛好家がその素晴らしさを認めています。
しかし、奈良時代までの日本の刀は大陸仕込みの反りのない直刀です。
いわゆる『反り』が生まれたのは平安時代。騎乗して振るうのに適していると、この時代に日本刀は湾曲した形状に進化しました。
その反りの深い『太刀』が、室町初期に反りの浅い『打ち刀』に変化します。
脇差は、そのころに生まれたといいます。
侍は、これ以降『二本差し』になったのです。

FullSizeRenderこの康光の脇差は、代々、元の持ち主のお家に伝わったものでした。
しかし、なぜ島津の紋がついたこの刀がふるさとしずおかに伝わったのか。
尋ねると、そこには『なるほどなぁ~』というヒストリーがありました。

元の持ち主のお家は、二丁町で最も大きな遊郭を営むお家であったそうです。
ふるさとしずおかにその名を知られる二丁町の大籬 小松楼。
今のご当主の曾祖父にあたられる勘兵衛翁は、明治の初め、朝敵となり駿府に蟄居した慶喜公のパトロンであったというのです。
脇差は、14代将軍の継承問題のときに一橋派であった島津の斉彬公から慶喜公に献じられ、
そののち、タニマチ役のねぎらいとして慶喜公から直々に勘兵衛翁に下賜されたのです。
慶喜公がふるさとしずおかに暮らしたのはおよそ30年。31歳から60歳まで。
その間、写真・狩猟・投網・囲碁・謡曲など趣味に没頭する生活をおくったそうです。
当時世に出た自転車にまたがった写真も残っています。
そして、遊郭に出かけるときは、決まって勘兵衛翁の小松楼にあがったといいます。

こんないわれの刀ですから、大事にしないといけませんねぇ。
これも、ふるさとしずおかに伝わるたいせつなたいせつなヒストリーです。

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ゼロ戦と焼きハマグリ、のココロ。

15年秋、Facebookを眺めていると、あるニュースが飛び込んできました。
『ゼロ戦里帰りプロジェクト』。

IMG_3894ニュージーランドでフライトジャケットメーカーを経営する石塚氏が、故あって所有することになったゼロ戦22型を日本の空に里帰りさせようというものです。
私財をつぎ込んだ壮大な事業です。彼の情熱と強い思いに圧倒されました。

このゼロ戦という飛行機は、大東亜戦争初期に当時の日本海軍が主に航空母艦に艦載し、制空権を確保することを目的に運用したもので、その長大な航続距離と優れた旋回能力、鋭い上昇力や強力な火力などで、戦争初期には世界でも最も優れた戦闘機と評されました。
1940年、海軍の慣例にのっとり、正式採用された皇紀2600年の末尾の『0』を取って『零式艦上戦闘機』と命名されました。

IMG_3903で、あるんです。このゼロ戦。
ふるさとしずおかにも。
航空自衛隊浜松基地。
基地の南端にあるエアパークと呼ばれる広報館の格納庫に、静かに翼を休めています。
浜松基地のゼロ戦は、最も多く生産された大戦後期の52型。改良によって僅かに出力が増したエンジンと、旋回性能よりも速力を重視して短く切り詰められた翼が特徴です。

IMG_3902ゼロ戦の生産機数は1万と430機。そのほとんどが先の大戦と米軍の進駐で失われました。
しかし、欧米を中心に、今も世界におよそ30機が現存します。
欧米では、時代を象徴する優れた工業製品として人々の記憶に残るゼロ戦も、生産国である日本では、先の大戦を象徴するものとして忌み疎まれています。
先に紹介した石塚氏のゼロ戦も、日本で飛ばすまでには相当の苦労があったと聞きます。
しかし私は、歴史を正しく理解するアイコンとして、こういう遺産は大切に後世に伝えることが必要だと思うのです。

IMG_3890きょうのおまけは、浜名湖 太助のアサリの酒蒸し。
小ぶりですが、かみしめるほどに旨みが溢れ出る浜名湖ならではのグルメです。
貝好きにはたまりません。
しかし、今年の浜名湖の潮干狩りは、アサリの稚貝がクロダイにやられて大打撃とか…。
ところで。品書きにはなぜかクルマエビの料理がずらり。
浜名湖ってクルマエビも名物なんですねぇ。

 

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新緑の足久保でフラダンス、のココロ。

中高生のころ、歴史の授業で習った仏教のこと。
非常に難解で、とうとうきちんと覚えることができませんでした。
手塚治虫の「ブッダ」も読んだんですけどねぇ。

IMG_3850 仏教には、平安時代の空海、最澄は言うに及びませんが、鎌倉時代にも偉人が多い。
浄土宗を開いた法然上人、その弟子で浄土真宗の開祖となった親鸞、さらに、日蓮宗の日蓮など。
飛鳥時代に日本に伝来した仏教は、奈良時代に徐々に定着し、平安時代から鎌倉時代にかけて土着の民間信仰などと融合して庶民の間にも本格的に広まったといいます。
ふるさとしずおかにもさまざまな宗派が根ざし、多くの寺院が人々の信仰を集めています。
きょうのお話は、そんなお寺のうちのひとつについて。

IMG_3840美和の奥地、静岡茶の発祥といわれる足久保の地に、京都 知恩院の末寺 浄土宗の新光明寺がひっそりと建ちます。
寺に伝わるところによると、建立は鎌倉時代とも室町時代ともいわれるようです。
長く伝馬町にありましたが、先の大戦の戦火に焼かれ、再建時にこの足久保の地に移転しました。

5月の若く鮮やかな緑に囲まれた境内は実に美しい。
市街地から車で僅か20分余りのところに、こんなによいとろがあるのもふるさとしずおかの特徴です。
毎年の大型連休には、境内のかさもり稲荷の大祭と称して、地域住民のためにお寺と氏子の皆さんが力を合わせて祭りを催します。
IMG_3849市内の高校や有志団体を招き、コーラスやフラダンス、和太鼓などの実演も楽しめます。
これがまたいい雰囲気なんですね。
フリーマーケットや手作りパンの店、おでんに焼き鳥、フランクフルト。
これ、全部、お寺と氏子の皆さんが運営してます。
ビールにいたっては一本200円。
手作り感満載のあたたかい、ほんとうにあたたかい地域のお祭りです。
大型連休の最終日、よいお祭りに巡り合いました。

IMG_3857きょうのおまけは、足久保に向かう美和街道の京丹波の焼き栗。
どうして安部口新田で京丹波なのかを問うのは無粋です。
谷岡さんの天津甘栗もうまいけど、味わいと食べ応え、ホクホク感はこっちが上。
ここね、懐かしいポン菓子もやってます。

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早雲と根古屋の城、のココロ。

ふるさとしずおかでは、サクラが散ったと思ったら、矢継ぎ早にツツジやフジが花を咲かせ盛春を彩っています。
こういう気分もなかなかいいもので、なんとなく平らな世の中に浸っているような気がします。
さて、きょうもふるさとしずおかのよしなしごとを。

IMG_3744駿河の国の東のはずれ、沼津は根古屋に、いにしえの城郭がその姿を少しづつ蘇らせています。
伊勢新九郎、のちの北条早雲が初めて手に入れた城、興国寺城です。

北条早雲といえば、一介の浪人から身を起こし、相模を手中に治めるまでの大名となったといわれますが、その出発点がふるさとしずおかにあったことはあまり知られていません。
のちに後北条氏家中の御由緒家といわれる6人の仲間とともに神水を酌み交わし、このうちの一人が大名になったら他の者はその家臣になろうと誓いあったという話は有名です。
しかし、この早雲。実は、最近の研究で、室町幕府の要職を務める伊勢氏の支流に当たることがわかったそうで、父は江戸時代でいう将軍の御取次衆ともいうべき申次衆を務めたとか。決して身分の低い浪人あがりというわけではなかったんですね。

IMG_3737 早雲は、1470年代の後半、幕府の命を受け、駿河の守護 今川氏の家督相続をめぐる諍いを仲裁します。30代半ばのことでした。
それにより手にしたのが前述の興国寺城。
後年、これを足掛かりにして伊豆の国を手に入れ韮山城に移り、さらに相模の国も手中に収め本拠を小田原に定めます。
戦国 後北条氏の誕生です。

IMG_1314再建され公園となり、模造天主も建つ小田原城も見事ですが、長い間打ち捨てられたことで草木に囲まれ、ただの丘にしか見えないようなこの平山城の跡には、時を超えた何かを感じます。
旧東海道の原宿から2kmほど北の小高い丘に建てられた城は、当時、北を除く三方が蓮池と呼ばれる沼地に囲まれ、残る北側は険しい空掘という、文字通り難攻不落の要害であったといいます。
天主台から南を見おろすと、駿河湾まで一望できる、まさに戦時下の砦として極めて優れた城であったことがわかります。

IMG_0753城跡のある根方街道は市民の生活道路です。
しかし、そんなところにも先人の残した遺産が隠れているんですねぇ。
ふるさとしずおかはなかなか奥が深い。

きょうのおまけは、三島は緑町のうなよし。
もう何年も通っていますが、何度食べても絶品。
一気に掻き込んで食べるとまたよし。
熱々の肝吸いもさらによし。

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春のうららの蒲原城、のココロ。

IMG_3665今をさかのぼること千と三百年余り。
わが日本は、仏教による鎮護国家政策によって、天平文化が花開いた時代でした。
大化の改新の立役者 藤原鎌足は、氏族を子孫の代に渡って国の中枢を担う一族に育て、
その血筋は、不比等の子 藤原四兄弟のとき、北家、南家をはじめとした四つの名家を立てるに至りました。

さて、きょうも、ふるさとしずおかのよしなしごとを。

わがふるさとしずおかは、奈良や平安の都とはそれほど縁が深そうな感じはしませんが、実はさにあらず。
見渡してみると、ここかしこにいにしえからの名残を見ることができます。

IMG_3664平安期に、藤原南家に連なる維清が、駿河の国 有渡郡は入江を本貫として入江氏を名乗ります。
その入江氏から分枝した蒲原氏が築城したと伝わるのが蒲原城。
南北朝時代から戦国末期まで、長きにわたり要害の地の守りとなった小さな山城です。

戦国期には、南下する甲斐の武田氏と相模の北条氏、さらには、当時この地を治めた駿河の守護 今川氏の間で、蒲原の領有をめぐり幾度となく小競り合いがありました。
IMG_3696それもそのはず、この地は東西を結ぶ要地であるにもかかわらず、海と陸地に挟まれ往来には難所といえる、まさに要害の地だったのです。
いにしえの蒲原城の名残は、旧東海道 蒲原宿の北、由比ヶ浜と薩捶峠を眼下に見おろす山中にあります。
曲廊、土塁、堀切に往時の姿を偲ばせる城址は、南は崖、その他三方も深い谷に遮られ、まさに堅牢な山城であったとこを今に伝えます。

ところで、この蒲原には、家康公がその山を背に御殿を構えていたことから「御殿山」と呼ばれる桜の名所があります。
IMG_3700毎年この時期には、ソメイヨシノと大島桜 合わせて1,000本にも迫ろうかという桜が満開の花を咲かせ、地域の人々に春のうららを披露します。
こうして、ほんの少しだけ目を凝らしてみると、今では通り過ぎるだけのかつての小さな宿場町にも、ここかしこに味わい深い見所があることに気付きます。
ふるさとしずおかはまことに奥が深い。

きょうのおまけは、ふるさとしずおかの春の風物詩 由比の桜エビ。
IMG_3702良い写真が無かったので、由比港のシンボル 桜エビのモニュメント。
桜エビ漁は春と秋の年2回。
駿河湾の桜エビは、甘み、旨みに秀でて、生でも釜揚げでもかき揚げでもよし。
美しい桃色の桜エビをみると、ふるさとしずおかに生まれ育ってよかったなぁと思うのです。

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北辰と古代信仰、のココロ。

『チョコザイな小僧め!名を、名を名乗れ!』
『赤胴鈴之助だ!』
というオープニングでTVアニメにもなった竹内つなよし氏の『赤胴鈴之助』。
少年剣士の活躍を描いたこのお話のおかげで、私も道場通いを始めました。
もう40年以上昔の話です。

物語では、少年剣士 鈴之助は、北辰一刀流 開祖 千葉周作に師事します。
千葉周作は実在の人物。
周作の北辰一刀流 玄武館は、幕末の江戸で、神道無念流の練兵館、鏡心明智流の士学館、心形刀流の錬武館とあわせ、江戸四大道場と言われた名門でした。
著名な剣士には、新選組の山南敬助、伊藤甲子太郎が名を連ね、小説にもなった吉村貫一郎も北辰一刀流を学んだといいます。
そして、この人を抜きにはできません。坂本龍馬。
先ごろ、龍馬が同流派の免許皆伝であることを裏付ける歴史的発見もありました。

えー、きょうも勿論ふるさとしずおかに関わるお話ですが、まずは、この北辰一刀流の千葉氏のお話から。

IMG_3448千葉氏というのは、平安期の下総国は千葉郡、今の千葉県習志野市あたりに興り栄えた一族です。さかのぼると、将門公に連なる坂東平氏の名門です。
江戸末期に剣士として名を馳せた周作は、一刀流を修めたのち、家伝の北辰夢想流とこれを合わせ、北辰一刀流なる流派を確立したと言われています。
北辰一刀流は、これまで体現や口伝で受け継がれることが一般的であった剣の奥義を、わかりやすく明文化したことで、瞬く間に多くの門弟を得ます。

IMG_3450ところで、この北辰という言葉。どうも千葉氏と縁が深そうです。
モノの本によると、北辰とは北極星を指すとあります。
北極星は古来 妙見とも呼ばれます。
天空にあり、唯一、その位置の動かぬ星 北辰。これを神格化し信仰対象とする起源は古代中央アジアだといいます。これが大陸を経由し道教と融合し、妙見信仰となって飛鳥時代の日本に伝わりました。
そして、時代が下ると、北辰は北辰妙見菩薩となって武士団の守護神として信仰を集めるようになったのだといいます。
千葉氏の氏神社は妙見本宮千葉神社です。
幕末の龍馬の偉業は、実は、この千葉一族の影働きによるものだという説もあります。

ふるさとしずおかは井宮町にある井宮神社。
通称 妙見さん。
この神社は、江戸時代になってから家康公によって建立されたといいますが、『妙見さん』という通称は千葉氏の北辰信仰を連想させます。
そういえば、私の姓である『遠藤』も千葉氏の傍流に連なる名。
ふるさとしずおかにもあったんですねぇ、妙見菩薩信仰が。
毎年、8月には七夕祭りが盛大に行われるようです。
一度は出かけてみないといけませんね。妙見さんの七夕まつり。

IMG_3449おまけは、妙見さんのすぐ向かいにある老舗和菓子店 三坂屋本店のクリームどら焼き。
なんと、創業80年の老舗です。
安倍七騎の大きな看板が目印です。
美味いんですけどね、うっかりして、おつりもらうの忘れました。

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お宮の岬、のココロ。

暖かくなりましたなぁ。
ふるさとしずおかにも、梅や桃や桜が咲く季節が訪れました。

えー、ということで、きょうもふるさとしずおかのよしなしごとを。
ふるさとしずおかは駿府に古くから今も残る『安西』『安東』という町名。
これ、有名な話ですが、安倍川の西、東という意味なんだそうな。
つまり、安倍川の西にあるのが『安西』で、東にあるのが『安東』というわけ。
しかし、どういうわけか、現在は『安東』も『安西』も安倍川の東にあるんですよねぇ。

IMG_3443古来から、ふるさとしずおかを流れる安倍川と藁科川は、灌漑用水や生活用水として人々の生活を潤す反面、大雨のたびに氾濫を起こす厄介な川だったといいます。
なにしろ勾配の急な川で、急流が多いといわれる日本の河川の中でも、とりわけ流れの急な川だったといいます。
江戸に幕府が開かれ、将軍職を息子 秀忠に譲ると、家康公は、駿府入城に伴い駿府城を拡張再整備するために天下普請を発します。
記録によると、薩摩藩主 島津忠恒公は、遠く西国から500石積の船150艘に石や材木を満載して駆けつけたといいます。
そして、市中を流れる安倍川、藁科川の流れを西へ逃がす長大な堤防を築きました。
いわゆる薩摩土手です。

IMG_3445土手は、井宮の妙見さんから始まり、弥勒へ抜けます。総延長 実に約4㎞。
これ以前の安倍川は、賤機山の南端をかすめ、駿府城を左に見ながら城の外郭を果たし、今の市中のど真ん中を八幡方面に流れていましたが、薩摩土手の完成によって、安倍川、藁科川は一つになり、市中を離れ西に流れを変えます。
賤機山南端、浅間神社鳥居前に『宮ヶ崎』という町名がありますが、これは『宮の岬』が転じたものだといいます。当時、あの辺りは安倍川に突き出した岬だったんですねぇ。

現在は、土手の大半は取り崩され『さつま通り』となり、僅かに、北の妙見さんから水道町の水門あたりまでの250mが当時の姿をとどめているにすぎません。
堤の途中にある、大きな石碑とお稲荷さんが、当時の天下普請の壮大さを後世の私たちにに語ります。

IMG_3446で、きょうのおまけは井宮の中村屋。
私の家では、子供の頃から親子丼といえば中村屋でした。
本店は常磐町 宝台院前。
そのむかしは二丁町で商いをしていたという、古い古い暖簾です。
少し甘めの味と、折箱の香りがあうんですよ。ほんとに。
あとね、この店は親子丼だけでなく焼鳥も極上です。

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鞠子のまちおこし、のココロ。

IMG_3562お江戸日本橋から終点の京は三条大橋まで、現在の距離にして約500km。
ご存知のように、この東海道には53の宿場がありましたが、わがふるさとしずおかの宿場は、東の三島宿をはじめに沼津、原、吉原、蒲原と続き、西の白須賀まで実に22もの宿場があったのだそうです。
駿河府中を発ち安倍川を越えると、最初の宿場 鞠子です。
今は丸子。とろろ汁の丁子屋は、広重の浮世絵『東海道五十三次』にも描かれています。
丸子まちづくり協議会のHPによると、当時の鞠子宿は、本陣、脇本陣と旅籠24軒、民家211軒。東海道では最も小さな宿場町だったといいます。

IMG_3565その鞠子宿が、近年、往時を凌ぐ賑わいを見せています。
きょうは、そんな鞠子のお話し。
去る2月21日。鞠子宿の旧街道 見付から東見付の間およそ800mが訪れた数千人の観光客でごった返しました。
前日20日からの二日間、この旧宿場町で地域のPRを目的にしたまつりが開催されました。
丸子まちづくり協議会の主催する『丸子宿場まつり』は、今年で17回を数えます。
IMG_3569毎年この時期に開催されますが、知名度の上昇と比例してその規模は年々拡大。地元の皆さんは、口を揃えて『年々人が増えている』と誇らしげ。
なるほど、今では地域の生活道路となったいにしえの街道は、この人たちはどこから来たのか?と思うほどの人波で普段とは全く違う賑わいです。

おでんや焼きそばを売る屋台からは食欲を誘う匂いと威勢の良い掛け声が響き、財布のひもがつい緩みます。

IMG_3570このまつりの最大の見どころは、一日目の宵に行う狐の嫁入り道中と、二日目の姫様道中。
古式ゆかしい道中姿は、街道全体が江戸の昔にタイムスリップしたようです。
なんか、いいですねぇ。
丸子って、本当に良いところです。

IMG_3557おまけは、美和の美和桜。
今 満開ということは河津桜ですが、安倍川沿いの美和地区に住民の手で植えたことからそう呼ぶのだそうです。
ここもいいところです。
美和街道を北上して美和小の交差点を安倍川の土手まで。
土手沿いの約1㎞で満開の美和桜を見ることができます。

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足久保茶、のココロ。

季節が行くのはまことに早い。
寒い寒いといっていたかと思えば、立春を過ぎて何となく暖かくなってきたような気がします。

IMG_3504さて、きょうもふるさとしずおかのよしなしごとを。
『静岡』と聞いて、全国の人々がまず思い浮かべるもの。
それは『お茶』でしょうな。間違いなく。しかも煎茶。
このお茶については、生産者の後継者問題や消費者ばなれなどが話題にのぼって長い時がたちますが、それでも生産量、出荷量、耕作面積などの多くの統計が、静岡が全国一の茶どころであることを示しています。
ということで、きょうはお茶について。

ひとくくりに静岡茶といっても、ふるさとしずおかにはその産地によって異なる特徴を持ったいくつものブランドがありますから、きょうはそのなかでも静岡茶の発祥といわれる足久保茶について取り上げます。

IMG_3506足久保というところは、JR静岡駅から安倍川に沿って12㎞ほど北上したところにある山間の里です。口組といわれる南部には40年ほど前から住宅地が開けましたが、それでも中心市街地から見ると人里離れた別世界。口組みから足久保川沿いに北進し奥組といわれる北部に入ると、川沿いの集落は点々として、山の斜面に開かれたいくつもの狭小地に棚田のように整然と植えられた茶畑の畝が見えてきます。
ある統計によれば、足久保には1,500世帯、4,000人が暮らしているのだそうですが、このうちの奥組に暮らすのは僅か15%だといいます。
言い伝えによると、鎌倉時代の1200年代後半、宋に学んだ禅宗の僧 円爾(えんに、のちに聖一国師)は、晩年、ふるさとであるこの地に戻り、宋から持ち帰った茶の種をこの地に植え、栽培を始めました。
これが静岡茶の発祥といわれています。

IMG_3513それから500年ほど時代が下り、江戸時代中期の1700年代後半。
江戸初期から献上茶、御用茶として名を馳せた足久保茶でしたが、吉宗公の諸事倹約政策によって献上茶が停止となると、かつての輝きは失われました。
しかし、再び高級煎茶の製法を甦らせる男が現れます。

初代竹茗こと山形屋庄八忠実。駿府 七間町に暖簾を構える茶商でした。
ふるさとしずおかではお馴染み 『おっ茶お茶は竹茗堂』の創業者です。
初代竹茗は、長年の研究によって、釜炒り製法で作られた焙じ茶のような茶色であった茶に対し、茶葉を蒸して揉む青茶製法を復活させ、茶の持つ香味、美しい黄緑色、旨み、苦みを引き出すことに成功したのです。

足久保茶は、始祖 聖一国師、中興の祖 初代竹茗のふたりと、茶の生産にかかわる数え切れぬ人々の手によって、800余年もの間 人々の喉を潤しています。
あの柔らかな旨味の黄緑色の茶には、こんな歴史があったんですねえ。

IMG_3494初代 竹茗は、巨大な石碑『狐石』に足久保茶復活を記しました。
その碑には、芭蕉の『駿河路や はなたちばなも 茶のにほい』の一句も刻まれているといいます。今じゃあ、全然読めなくなってるけど…。

おまけは、駿河区は津島町の『お抹茶 こんどう』。
大将の近藤雄介氏は、若いのに食、酒、茶に造詣の深い、研究者でもあり職人でもある粋人。
煎茶でも抹茶でも、見事な一服をいただけます。

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