投稿者「遠藤貴広」のアーカイブ

春のうららの蒲原城、のココロ。

IMG_3665今をさかのぼること千と三百年余り。
わが日本は、仏教による鎮護国家政策によって、天平文化が花開いた時代でした。
大化の改新の立役者 藤原鎌足は、氏族を子孫の代に渡って国の中枢を担う一族に育て、
その血筋は、不比等の子 藤原四兄弟のとき、北家、南家をはじめとした四つの名家を立てるに至りました。

さて、きょうも、ふるさとしずおかのよしなしごとを。

わがふるさとしずおかは、奈良や平安の都とはそれほど縁が深そうな感じはしませんが、実はさにあらず。
見渡してみると、ここかしこにいにしえからの名残を見ることができます。

IMG_3664平安期に、藤原南家に連なる維清が、駿河の国 有渡郡は入江を本貫として入江氏を名乗ります。
その入江氏から分枝した蒲原氏が築城したと伝わるのが蒲原城。
南北朝時代から戦国末期まで、長きにわたり要害の地の守りとなった小さな山城です。

戦国期には、南下する甲斐の武田氏と相模の北条氏、さらには、当時この地を治めた駿河の守護 今川氏の間で、蒲原の領有をめぐり幾度となく小競り合いがありました。
IMG_3696それもそのはず、この地は東西を結ぶ要地であるにもかかわらず、海と陸地に挟まれ往来には難所といえる、まさに要害の地だったのです。
いにしえの蒲原城の名残は、旧東海道 蒲原宿の北、由比ヶ浜と薩捶峠を眼下に見おろす山中にあります。
曲廊、土塁、堀切に往時の姿を偲ばせる城址は、南は崖、その他三方も深い谷に遮られ、まさに堅牢な山城であったとこを今に伝えます。

ところで、この蒲原には、家康公がその山を背に御殿を構えていたことから「御殿山」と呼ばれる桜の名所があります。
IMG_3700毎年この時期には、ソメイヨシノと大島桜 合わせて1,000本にも迫ろうかという桜が満開の花を咲かせ、地域の人々に春のうららを披露します。
こうして、ほんの少しだけ目を凝らしてみると、今では通り過ぎるだけのかつての小さな宿場町にも、ここかしこに味わい深い見所があることに気付きます。
ふるさとしずおかはまことに奥が深い。

きょうのおまけは、ふるさとしずおかの春の風物詩 由比の桜エビ。
IMG_3702良い写真が無かったので、由比港のシンボル 桜エビのモニュメント。
桜エビ漁は春と秋の年2回。
駿河湾の桜エビは、甘み、旨みに秀でて、生でも釜揚げでもかき揚げでもよし。
美しい桃色の桜エビをみると、ふるさとしずおかに生まれ育ってよかったなぁと思うのです。

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北辰と古代信仰、のココロ。

『チョコザイな小僧め!名を、名を名乗れ!』
『赤胴鈴之助だ!』
というオープニングでTVアニメにもなった竹内つなよし氏の『赤胴鈴之助』。
少年剣士の活躍を描いたこのお話のおかげで、私も道場通いを始めました。
もう40年以上昔の話です。

物語では、少年剣士 鈴之助は、北辰一刀流 開祖 千葉周作に師事します。
千葉周作は実在の人物。
周作の北辰一刀流 玄武館は、幕末の江戸で、神道無念流の練兵館、鏡心明智流の士学館、心形刀流の錬武館とあわせ、江戸四大道場と言われた名門でした。
著名な剣士には、新選組の山南敬助、伊藤甲子太郎が名を連ね、小説にもなった吉村貫一郎も北辰一刀流を学んだといいます。
そして、この人を抜きにはできません。坂本龍馬。
先ごろ、龍馬が同流派の免許皆伝であることを裏付ける歴史的発見もありました。

えー、きょうも勿論ふるさとしずおかに関わるお話ですが、まずは、この北辰一刀流の千葉氏のお話から。

IMG_3448千葉氏というのは、平安期の下総国は千葉郡、今の千葉県習志野市あたりに興り栄えた一族です。さかのぼると、将門公に連なる坂東平氏の名門です。
江戸末期に剣士として名を馳せた周作は、一刀流を修めたのち、家伝の北辰夢想流とこれを合わせ、北辰一刀流なる流派を確立したと言われています。
北辰一刀流は、これまで体現や口伝で受け継がれることが一般的であった剣の奥義を、わかりやすく明文化したことで、瞬く間に多くの門弟を得ます。

IMG_3450ところで、この北辰という言葉。どうも千葉氏と縁が深そうです。
モノの本によると、北辰とは北極星を指すとあります。
北極星は古来 妙見とも呼ばれます。
天空にあり、唯一、その位置の動かぬ星 北辰。これを神格化し信仰対象とする起源は古代中央アジアだといいます。これが大陸を経由し道教と融合し、妙見信仰となって飛鳥時代の日本に伝わりました。
そして、時代が下ると、北辰は北辰妙見菩薩となって武士団の守護神として信仰を集めるようになったのだといいます。
千葉氏の氏神社は妙見本宮千葉神社です。
幕末の龍馬の偉業は、実は、この千葉一族の影働きによるものだという説もあります。

ふるさとしずおかは井宮町にある井宮神社。
通称 妙見さん。
この神社は、江戸時代になってから家康公によって建立されたといいますが、『妙見さん』という通称は千葉氏の北辰信仰を連想させます。
そういえば、私の姓である『遠藤』も千葉氏の傍流に連なる名。
ふるさとしずおかにもあったんですねぇ、妙見菩薩信仰が。
毎年、8月には七夕祭りが盛大に行われるようです。
一度は出かけてみないといけませんね。妙見さんの七夕まつり。

IMG_3449おまけは、妙見さんのすぐ向かいにある老舗和菓子店 三坂屋本店のクリームどら焼き。
なんと、創業80年の老舗です。
安倍七騎の大きな看板が目印です。
美味いんですけどね、うっかりして、おつりもらうの忘れました。

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お宮の岬、のココロ。

暖かくなりましたなぁ。
ふるさとしずおかにも、梅や桃や桜が咲く季節が訪れました。

えー、ということで、きょうもふるさとしずおかのよしなしごとを。
ふるさとしずおかは駿府に古くから今も残る『安西』『安東』という町名。
これ、有名な話ですが、安倍川の西、東という意味なんだそうな。
つまり、安倍川の西にあるのが『安西』で、東にあるのが『安東』というわけ。
しかし、どういうわけか、現在は『安東』も『安西』も安倍川の東にあるんですよねぇ。

IMG_3443古来から、ふるさとしずおかを流れる安倍川と藁科川は、灌漑用水や生活用水として人々の生活を潤す反面、大雨のたびに氾濫を起こす厄介な川だったといいます。
なにしろ勾配の急な川で、急流が多いといわれる日本の河川の中でも、とりわけ流れの急な川だったといいます。
江戸に幕府が開かれ、将軍職を息子 秀忠に譲ると、家康公は、駿府入城に伴い駿府城を拡張再整備するために天下普請を発します。
記録によると、薩摩藩主 島津忠恒公は、遠く西国から500石積の船150艘に石や材木を満載して駆けつけたといいます。
そして、市中を流れる安倍川、藁科川の流れを西へ逃がす長大な堤防を築きました。
いわゆる薩摩土手です。

IMG_3445土手は、井宮の妙見さんから始まり、弥勒へ抜けます。総延長 実に約4㎞。
これ以前の安倍川は、賤機山の南端をかすめ、駿府城を左に見ながら城の外郭を果たし、今の市中のど真ん中を八幡方面に流れていましたが、薩摩土手の完成によって、安倍川、藁科川は一つになり、市中を離れ西に流れを変えます。
賤機山南端、浅間神社鳥居前に『宮ヶ崎』という町名がありますが、これは『宮の岬』が転じたものだといいます。当時、あの辺りは安倍川に突き出した岬だったんですねぇ。

現在は、土手の大半は取り崩され『さつま通り』となり、僅かに、北の妙見さんから水道町の水門あたりまでの250mが当時の姿をとどめているにすぎません。
堤の途中にある、大きな石碑とお稲荷さんが、当時の天下普請の壮大さを後世の私たちにに語ります。

IMG_3446で、きょうのおまけは井宮の中村屋。
私の家では、子供の頃から親子丼といえば中村屋でした。
本店は常磐町 宝台院前。
そのむかしは二丁町で商いをしていたという、古い古い暖簾です。
少し甘めの味と、折箱の香りがあうんですよ。ほんとに。
あとね、この店は親子丼だけでなく焼鳥も極上です。

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鞠子のまちおこし、のココロ。

IMG_3562お江戸日本橋から終点の京は三条大橋まで、現在の距離にして約500km。
ご存知のように、この東海道には53の宿場がありましたが、わがふるさとしずおかの宿場は、東の三島宿をはじめに沼津、原、吉原、蒲原と続き、西の白須賀まで実に22もの宿場があったのだそうです。
駿河府中を発ち安倍川を越えると、最初の宿場 鞠子です。
今は丸子。とろろ汁の丁子屋は、広重の浮世絵『東海道五十三次』にも描かれています。
丸子まちづくり協議会のHPによると、当時の鞠子宿は、本陣、脇本陣と旅籠24軒、民家211軒。東海道では最も小さな宿場町だったといいます。

IMG_3565その鞠子宿が、近年、往時を凌ぐ賑わいを見せています。
きょうは、そんな鞠子のお話し。
去る2月21日。鞠子宿の旧街道 見付から東見付の間およそ800mが訪れた数千人の観光客でごった返しました。
前日20日からの二日間、この旧宿場町で地域のPRを目的にしたまつりが開催されました。
丸子まちづくり協議会の主催する『丸子宿場まつり』は、今年で17回を数えます。
IMG_3569毎年この時期に開催されますが、知名度の上昇と比例してその規模は年々拡大。地元の皆さんは、口を揃えて『年々人が増えている』と誇らしげ。
なるほど、今では地域の生活道路となったいにしえの街道は、この人たちはどこから来たのか?と思うほどの人波で普段とは全く違う賑わいです。

おでんや焼きそばを売る屋台からは食欲を誘う匂いと威勢の良い掛け声が響き、財布のひもがつい緩みます。

IMG_3570このまつりの最大の見どころは、一日目の宵に行う狐の嫁入り道中と、二日目の姫様道中。
古式ゆかしい道中姿は、街道全体が江戸の昔にタイムスリップしたようです。
なんか、いいですねぇ。
丸子って、本当に良いところです。

IMG_3557おまけは、美和の美和桜。
今 満開ということは河津桜ですが、安倍川沿いの美和地区に住民の手で植えたことからそう呼ぶのだそうです。
ここもいいところです。
美和街道を北上して美和小の交差点を安倍川の土手まで。
土手沿いの約1㎞で満開の美和桜を見ることができます。

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足久保茶、のココロ。

季節が行くのはまことに早い。
寒い寒いといっていたかと思えば、立春を過ぎて何となく暖かくなってきたような気がします。

IMG_3504さて、きょうもふるさとしずおかのよしなしごとを。
『静岡』と聞いて、全国の人々がまず思い浮かべるもの。
それは『お茶』でしょうな。間違いなく。しかも煎茶。
このお茶については、生産者の後継者問題や消費者ばなれなどが話題にのぼって長い時がたちますが、それでも生産量、出荷量、耕作面積などの多くの統計が、静岡が全国一の茶どころであることを示しています。
ということで、きょうはお茶について。

ひとくくりに静岡茶といっても、ふるさとしずおかにはその産地によって異なる特徴を持ったいくつものブランドがありますから、きょうはそのなかでも静岡茶の発祥といわれる足久保茶について取り上げます。

IMG_3506足久保というところは、JR静岡駅から安倍川に沿って12㎞ほど北上したところにある山間の里です。口組といわれる南部には40年ほど前から住宅地が開けましたが、それでも中心市街地から見ると人里離れた別世界。口組みから足久保川沿いに北進し奥組といわれる北部に入ると、川沿いの集落は点々として、山の斜面に開かれたいくつもの狭小地に棚田のように整然と植えられた茶畑の畝が見えてきます。
ある統計によれば、足久保には1,500世帯、4,000人が暮らしているのだそうですが、このうちの奥組に暮らすのは僅か15%だといいます。
言い伝えによると、鎌倉時代の1200年代後半、宋に学んだ禅宗の僧 円爾(えんに、のちに聖一国師)は、晩年、ふるさとであるこの地に戻り、宋から持ち帰った茶の種をこの地に植え、栽培を始めました。
これが静岡茶の発祥といわれています。

IMG_3513それから500年ほど時代が下り、江戸時代中期の1700年代後半。
江戸初期から献上茶、御用茶として名を馳せた足久保茶でしたが、吉宗公の諸事倹約政策によって献上茶が停止となると、かつての輝きは失われました。
しかし、再び高級煎茶の製法を甦らせる男が現れます。

初代竹茗こと山形屋庄八忠実。駿府 七間町に暖簾を構える茶商でした。
ふるさとしずおかではお馴染み 『おっ茶お茶は竹茗堂』の創業者です。
初代竹茗は、長年の研究によって、釜炒り製法で作られた焙じ茶のような茶色であった茶に対し、茶葉を蒸して揉む青茶製法を復活させ、茶の持つ香味、美しい黄緑色、旨み、苦みを引き出すことに成功したのです。

足久保茶は、始祖 聖一国師、中興の祖 初代竹茗のふたりと、茶の生産にかかわる数え切れぬ人々の手によって、800余年もの間 人々の喉を潤しています。
あの柔らかな旨味の黄緑色の茶には、こんな歴史があったんですねえ。

IMG_3494初代 竹茗は、巨大な石碑『狐石』に足久保茶復活を記しました。
その碑には、芭蕉の『駿河路や はなたちばなも 茶のにほい』の一句も刻まれているといいます。今じゃあ、全然読めなくなってるけど…。

おまけは、駿河区は津島町の『お抹茶 こんどう』。
大将の近藤雄介氏は、若いのに食、酒、茶に造詣の深い、研究者でもあり職人でもある粋人。
煎茶でも抹茶でも、見事な一服をいただけます。

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伊豆山中で忠臣蔵を思う、のココロ。

時は移り変わっても、日本人の心の風景の一つともいえる『忠臣蔵』。
江戸の昔から、この赤穂事件を題材にした『忠臣蔵』は、浄瑠璃や歌舞伎を通して広く深く人々の心を捉えて離しません。
物語で語られる討ち入りは、静かに雪が降る夜でした。
内蔵助良雄に率いられた総勢四十七人の赤穂の浪士は、見事本懐を遂げ、隊列を組み泉岳寺に引き上げます。
その日 元禄15年12月14日は、現在の暦では1月30日にあたるのだそうです。

IMG_3483えー、きょうもふるさとしずおかに関するよしなしごとを。
『忠臣蔵』というと、ちょっとふるさとしずおかには縁のないもののような気がしますが、実は、意外なところにその名残がありました。
西伊豆は一色 慈眼寺。
堂ヶ島の美しい海岸を右手に国道136号線を南下し、西伊豆町浜橋交差点を仁科川に沿って東に進みます。
四十七士の唯一の生き残り寺坂吉右衛門信行の墓と伝えられる地蔵は、この小さな山間の寺にひっそりと祀られています。
吉右衛門は、主家である浅野家の直臣でしたが、士分ではなく足軽だったといいます。
史実の赤穂事件はいまだに謎が多く、全容が明らかになっていませんが、この寺坂吉右衛門なる浪士は、吉良邸討ち入りのち行方をくらませます。
上野介の首級を掲げ泉岳寺へ向かう隊列には、すでにその姿は無かったといいます。
何故か?
このことも、300年以上たった今も謎のままです。

IMG_3443一説によると、吉右衛門は内蔵助の密命を受け、残された家中の者の救済に余生を捧げたといいます。
武士の世は本懐を遂げたら潔く腹を切るのが習いですが、内蔵助の命は、武士として生きた者には死を選ぶよりも過酷なものでした。
卑怯者と誹りを受けながらも、助けを必要とする誰かのために生き続けるのです。

その説に基づいた映画があります。
『最後の忠臣蔵』。
IMG_3482佐藤浩市が吉右衛門を演じ、内蔵助より更なる密命を受け逐電した藩士 瀬尾孫左衛門を役所広司が演じました。
もっと自由に幸せを求める生き方はできなかったのかと、やりきれない思いを抱く一方で、誰かのために命を賭して生きる清廉さを感じます。
もしかすると、武士という身分は決して特権階級ではなく、むしろ、がんじがらめの非常に生きるのが難しい人々だったのかもしれませんな。
平成人には、あのような生き方はできますまい。
吉右衛門の墓と伝わる地蔵に手を合わせ、そんなことを思いました。

IMG_3481ちなみに、西伊豆にはもう一つ慈眼寺という名の寺があります。
こちらは、宇久津の海辺近く。
どうか、お間違いの無いよう。

きょうのおまけは、西伊豆田子地区名産の塩鰹を使った『しおかつおせんべい』。
やめられないとまらないの美味さです。

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栄枯盛衰、盛者必衰、のココロ。

『祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす』
習いましたなぁ。若い頃。
なかなか暗記できませんでした。
ご承知のように、これはかの平家物語の冒頭の一文。 おごれる平氏も久しからずや、盛えたものは必ず衰える、思い上がったものは長くは続かない。人の世は栄え衰えることの繰り返しであると、世の習いを説いています。

IMG_3421清盛によって栄華を極めた平氏でしたが、その運命は、清盛の死後、源氏の台頭によって長門の国 壇ノ浦の波間に消え行くことになります。
ところでこの平氏という一門。元を辿るとやんごとなき血筋の一族なんですね。
いくつかの系統がありますが、もっとも有名なのは桓武平氏。 時は9世紀。第50代天皇 桓武天皇の第三皇子 葛原親王(かずわらしんのう)が子女の臣籍降下を願い出てこれを許され、親王の三人の皇子は平の姓を賜りそれぞれ皇族の身分を離れ下野します。
これが桓武平氏の始まりです。
皇子のうち末子の高望王は平高望を名乗りましたが、これが桓武平氏 高望流の始まりで、この系統から、後の日本史に名を残す多くの人物が排出されます。
高望は、現在の千葉にあたる上総を治める役に就き、子の国香らを連れ任地に下向します。 そして、その地で後に坂東平氏と呼ばれることになる武士団を形成しました。
IMG_3420このうちから、『新皇』を名乗る男が現れます。
そう、平将門です。
将門公は、高望王の孫。つまり、桓武天皇に連なる家系だったんですね。
将門公が関東王権に託した夢は儚く散りますが、その100年後に清盛が権勢を極めたのは周知のことです。
皇統に刃を向けはしたものの、大河ドラマ「風と雲と虹と」で描かれた加藤剛演じる将門公は、正義と情けを持った立派な武将でした。

IMG_3419ところでこの平氏。
落人が隠れ住んだといわれる「隠れ里」が全国に点在します。 なんと、わがふるさとしずおかにも。
伝承では、「平」がつく地名に多いんですね。なるほど納得。 そういわれるうちの多くが、平成の今も人里離れた当時の風情を残し往時をしのばせます。
まさに栄枯盛衰。しかし、人はなんとしぶとく強いものか。

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駿河の国 一宮、のココロ。

みなさま、あけましておめでとうございます。

いつも、ふるさとしずおかで暮らすココロ。にお付き合いいただき、まことにありがとうございます。
拙い徒然話ではございますが、どうぞ本年もご贔屓に。

IMG_3413さて、さっそく本年もふるさとしずおかのよしなしごとを。
えー、お正月と聞いてまず思いつくのは初詣。
文字通り、年が明けて初めて寺社を詣でることですが、どこでもよいとうわけではなく、一般的にはご近所の氏神様や恵方の寺社を参拝します。
例えば、私の住む町では、第12代の景行天皇をお祀りした青木神社が氏神にあたりますが、ここ数年の我が家では、この青木神社やおせんげんさんに加え、富士山本宮浅間大社や三島大社、あるいは小國神社を詣でるのが恒例です。

 

IMG_3415飛鳥時代と呼ばれる天皇を中心にした中央集権国家の形成期、我が国では大陸国家に倣い律令制が執られ、それに伴って、全国が律令国と呼ばれるおよそ70もの国に分けられました。
例の、出羽の国とか越後の国とかいうやつですな。
この律令国による地理上の区分は、その後、1500年もの長きにわたって公用のものとされ、平成の今も頻繁に使われています。
当時のふるさとしずおかには、律令国が三つ。
駿河国、遠江国、そして伊豆国。
今の、中部、西部、東部の区分と似てますねぇ。
そして、そのそれぞれに一宮と呼ばれる、地域で最も格式の高い神社が建立されました。
前述の浅間大社、小國神社、三島大社は、それぞれ駿河、遠江、伊豆の一宮。
どうりで、その境内も社も荘厳な感じがします。

IMG_3417そんな古の国の成り立ちを思いながらの参拝は、心なしか身も引き締まります。
私は、今年は駿河の国の一宮 富士山本宮浅間大社に詣でました。
そのあとは、神社向かいのお宮横丁。
お勧めは、やっぱり富士宮焼きそば学会直営店。
モッチリ麺と出汁の味がよく合います。
あとね、横丁の奥にあるお店の紅鱒の漬け丼が旨いんですよ。
紅鱒のいい香りと、プリプリっとした食感とねっとりした感じが上手く調和していて。
本当に旨い。
残念ながらお店の名前忘れたけど。

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古の県庁に登庁、のココロ。

大雪も過ぎて、暖かいふるさとしずおかもすっかり寒くなりました。
世間はクリスマスをひかえて忘年会ラッシュですな。

えー、そんな浮かれ気分を横目に、きょうもふるさとしずおかのよしなしごとを。
江戸の昔、我が国はいくつもの「藩」と呼ばれる一種の「国」に分かれていました。
改易、廃藩などでその数は時代によって異なりますが、その総数およそ300。
知行地の石高 1万石以上を大名というそうですから、江戸期には300以上の大名家があったということです。
これはもう大変な数です。
ちなみに、この「石」という単位はコメの生産高を表していて(1石は150㎏、ちなみに、勢力にして1万石=235人なのだそうです)、藩の規模は1万石から100万石。当時の日本の総石高は3,000万石だったといいます(3,000万石は450万t。ある調査によると、2013年の国内の米の生産高は、1,100万t。実に3倍近く!)。

IMG_3324 ところで、この藩。
薩摩藩、長州藩などの名はよく耳にしますが、ふるさとしずおかに「駿河藩」は存在したのでしょうか?
実は、江戸期を通じて、初期の一時期を除き、ふるさとしずおかの中心部 駿府には藩はおかれず、天領、つまり幕府直轄の時代が明治まで続きました。
地理的に西国の勢力から江戸を守る要所に位置したことや、家康をはじめ徳川の宗家に連なる血と関りが濃かったことが理由ですが、それでも、その天領に隣接する地域には小さいながらもいくつかの藩が存在していました。

駿府をぐるりと包み込むように、東は小島藩、沼津藩、西は田中藩、相良藩、さらに横須賀、掛川、浜松と、実に7つもの藩があったといいます。
そこで、きょうはそのうちのひとつ「小島(おじま)藩」についてのお話し。

IMG_3329国道1号線バイパスを興津から国道52号線に入り、山梨県に向けて5㎞ほど北上すると、街道筋に「小島陣屋」の案内板が見えてきます。
当時、幕府の定めた軍役令では、城を持つことが許されるのは2万石以上の大名で、1万石の小島藩は城を持つことができませんでした。
そこで藩は、「陣屋」と呼ばれる行政庁をこの小島地区に整備しこれを本拠とします。
とはいえ、1万石といえば1,500tのコメを生産するわけですから、その支配の及ぶ範囲は、現在の静岡市域のうち、西は安倍川以東の中心地を囲む地域、北は平山、南は中島、東は清水区に及ぶ広大なものでした。
陣屋跡も、立派な石垣が組まれ、戦に備えた枡形虎口の跡も見られます。天守や堀があれば立派な平山城といえるような造りです。

陣屋跡から眼下を眺めると、山間の村落は東に流れる興津川に向かってなだらかに下ります。
ここが、古の県庁かと思うと、200年のうちに世の中は随分と変わったんだなぁと思います。

IMG_3356そして、きょうのおまけは、国道52号線沿いのスイート遠藤のどら焼き。
創業40余年の老舗和菓子店です。
このどら焼きね、まことに美味しゅうございます。イチゴクリームや抹茶味など全5種類。
甘さ控えめでどれもよし。
しかも、ひとつ140円。
同店訪問は30年越しの願いでした。
遠藤さんといっても親戚じゃないけど。

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伊豆はいいね、のココロ。

少し前の新聞。
ふるさとしずおかを訪れる観光客が過去最高を記録したとか。
ありがたいことです。

IMG_3072詳しく見ると、県の発表では、2014年度の来静観光客は、速報値で1億4,793万人。過去最高で、前年対比2%の増加だということです。
人数にして300万人増。
で、我がふるさとしずおかにお越しくださったお客様が、一体どの辺りに多くいらしたかというと、目立つのが伊豆です。
北部伊豆で6.4%増、南部伊豆でも2.7%増。
残念なのは、中部駿河地域が-5.1%と、大きく全体の足を引っ張ってしまっていることですが、県によれば、これは大道芸などのメインイベントの時期に悪天候が重なったからだということです。

まぁ、しかし。
たくさんのお客様がふるさとしずおかにきてくださることは、ほんとうにありがたいことです。
これが、交通の便がよくなったからなどという理由だけでなく、県民の計画に従った狙い通りの主客力向上によるものだったらなおいいですね。

ところで、やはり伊豆はふるさとしずおかの観光分野でではクリーンナップを任せられる実力者で、私などは以前から四番バッターにふさわしいと思っているのでありますが、東西南北の各地域でそれぞれ持ち味が違っていて、ストライクゾーンのどこでも本塁打の打てる、死角の無い強打者のようです。
温泉地や海水浴場だって、挙げだしたら暇がない。

そんな伊豆ですが、残念なことに、一方ではあまりぱっとしない観光地もあります。
きょうも、ふるさとしずおかはいいところだねぇって話ですが、話題にするのはそんなぱっとしない観光地。
でも、実はそれがとってもいいところだよってお話です。

IMG_3074伊豆半島の南西部。賀茂郡は松崎町。
もちろん、他の伊豆の町と同じく良い温泉場や海水浴場もあります。
桜餅に使われる塩漬けの桜の葉っぱは、なんと全国一の生産量。
しかし、松崎といえば入江長八。漆喰の芸術家 伊豆の長八のなまこ壁とこて絵に尽きます。
長八は、江戸末期から明治初期の左官職人です。
貧農に生まれましたが、左官と日本画、彫刻を学び、その優れた手腕を多くの作品として残しました。
菩提寺の浄感寺では、まるで命が吹き込まれているかのようなこて絵の天女や八方睨みの竜が見られます。
また、松崎港に流れる那賀川沿いを行けば、なまこ壁の家並みや旧商家を見ることができます。
海からの風に吹かれて歩くと、まるで江戸時代の港町にタイムスリップしたようです。
IMG_3130特に、菩提寺の浄感寺の長八記念館と、なまこ壁の呉服商 中瀬家はおススメです。
今ならまだ空いてるしね。

で、きょうのおまけは戸田のタカアシガニ。
なかなかのハクリョクです。
ボリュームがあるのでミソと身のとも和えは食べごたえあり。
味はケガニやズワイが上かなぁ。
しかし、身離れが良くて食べ易し。それは〇。
これも、伊豆の名物なり。

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