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三島の湧泉と江戸かわりそば、のココロ。

我がご先祖様が徳川四天王の井伊直政に召し抱えられたしばらくののち、武田の遺臣はいつの日かのお家再興を誓い、おのおのが自らに使命を課し駿河の各地に散らばります。あるものは水路を確保し、あるものは田畑を耕し、来たるべき日のために力を蓄えておくのです。
かつてお世話になった方に、ふるさとしずおかの宿場町の大庄屋のご当主がいらっしゃいました。
ご先祖は、お家再興のため密命を持って甲州から駿河に下った武田の遺臣。
当時は、筆舌に尽くしがたい苦労があったのでしょう。
しかし、時は流れ世はすでに徳川の治世。お家再興の夢は断たれ、この地で土と共に生きる道を選んだといいます。

IMG_3141戦後の農地解放で多くの地所を失ったものの、街道筋に残る本家は、今も当時の隆盛を偲ばせます。江戸期には参勤交代によってもたらされる東西の珍しい植物が集まり、日本で初めての私設植物園となったのだそうです。 お家再興の夢は散っても、同家は『帯笑園』という名と、ゆくりなく人が出会うサロンとして多くの文化財を後世に残しました。

JR東海道線 三島駅のすぐ南に『楽寿園』と呼ばれる名園があります。
75,000平米ともいわれる広大な庭園は木々に覆われ、市街地からの眺めはまさに『三島の杜』ともいうべき景観ですが、この姿は、明治期の半ばに小松宮彰仁親王の別荘として整えられたものです。
IMG_3142その後、楽寿園は李氏朝鮮の皇太子の所有となり、昭和の初めに、伊豆の造船王 緒明圭造氏の所有を経て、戦後、一部を除いて三島市のものとなりました。
よく三島は水の町といわれますが、それは、この楽寿園に湧く富士の湧水によるものです。
園内にはいくつもの湧泉や清流が見られ、宮の別邸 楽寿館や小浜池などと合わせ、多くの見どころを持っています。

前述の大庄屋のお家は、この楽寿園ともご縁があったのだそうです。
ご当主によれば、楽寿園を分割解体から救った緒明家からお輿入れなさった方がいらしたとか。

ふるさとしずおかにはいいところがたくさんありますねぇ。
そして、それぞれに魅力的なヒストリーがある。
どうですか?そんなことを考えながら、久しぶりに楽寿園を散歩してみては。

FullSizeRenderで、きょうのおまけは、楽寿園南の江戸かわりそば 飯嶋のお蕎麦。
この時期のかわりそばは、シソ切りとレモン切りです。
美味いですよ。
味わいのある田舎そばとお上品なさらしなもおススメです。
江戸というだけあってつまみも豊富ですから、散歩の後にまずは蕎麦前で一杯ってのもオツですな。

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川村さんちのトマト、のココロ。

朝夕は過ごしやすくなりましたねぇ。
うっかりすると、すぐにも秋がやってきそうな気配です。

えー、今年の夏はトマトをたくさん食べました。
暑い夏は、スライスして塩をふるだけで十分ごちそうです。
この夏野菜の代表格トマト。最近はまるで果物のように甘いものがあるんですねぇ。
実は、ふるさとしずおかにもありました。
『アイコ』というカワイイ名の美味しいトマト。
ということで、きょうもふるさとしずおかっていいなぁというお話。

突然ですが、三保といえば松原。
古くから日本三大松原のひとつに数えられ、ふるさとしずおかに暮らす私たちにはお馴染みの景勝地です。
広重の浮世絵に描かれた三保の松原を見ると、この地がいかに尊ばれてきたがわかります。
皆さんご承知のように、この三保の松原は、2014年、富士山とともにユネスコ世界遺産に登録されました。

IMG_3099三保というと、私の記憶に真っ先に浮かぶのは分厚いコンクリート造りの壕。あれは、大東亜戦争末期の特攻魚雷艇『震洋』の掩体壕だったんですね。
子供ながらに、こんな身近にも戦争の軌跡があるのだと身が引き締まったものです。
とはいえ、世間一般で三保といえば、やはり、松原や灯台、羽衣の松。ほかにも海水浴やBBQ、水族館など、具体的な『アソビ』の場として身近な場所でした。
免許取りたての頃は、モーターサイクルやクルマでちょいと行くには手ごろな場所でもありました。
しかし、その後三保は少しづつ輝きを失っていきます。正確には、三保が輝きを失ったのではなく、人々が三保の輝きに気づかなくなったんですね。
そんな時代が長く続きました。

IMG_3097三保が再び人々の注目を集めたのが、先に触れた14年の世界遺産登録でした。
そして今、三保は史上空前の人気を博しています。
そんな三保に、またひとつ新しい話題が生まれました。
エコファーマー 川村農園。
この地に長く続く歴史ある農園で、前述のトマト『アイコ』や『アミノレッド』の生みの親です。

現在の当主は12代目。若くてイケメンです。奥さんもとっても美人。
化学肥料は一切使用せず、有機発酵肥料で土づくりから手間を惜しみません。
そんなこだわりの栽培方法で、甘く味の濃いトマトを生み出しています。

IMG_3098それでね、この川村農園、なんと土日祝日はcaféもやってます。
アイスジェラートやトマトジュース、この時期はメロンパフェも味わえます。
おススメはトマトジュースとメロンパフェだなぁ。
甘くてフレッシュなトマトジュースはフルーツジュースのようです。
そして、メロンパフェはまさにパーフェクトなスイーツです。

この12代目ご夫婦。
先代のご両親や周りの方々と一緒に、新しいことに挑戦するって感じで魅力があります。
こういうさわやかでひたむきな若い人っていいですね。
というわけで、どうか、どなたさまもお早めに川村農園をお訪ねください。
決して期待が裏切られることはありません。

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裂織と蒲原宿、ゆくりなく人は出会う、のココロ。

裂織(さきおり)という織物技術があります。
江戸の昔、まだ綿や絹などの繊維製品が貴重であった時代に、古くなった布を裂き再生する技法やそれによって新たに生まれ変わった布や着物を指す言葉です。
私たちのふるさとしずおかにもありました。
駿河裂織倶楽部。
東海道は旧蒲原宿に、この伝統の技法を今に伝える活動をするNPOがあります。
ということで、きょうもふるさとしずおかはいいねぇという話をひとつ。

IMG_3022お江戸日本橋から数えて15番目の宿場 蒲原。
普段通り過ぎるだけのこの小さな町は、江戸の昔は結構立派な宿場でした。
広重の東海道五拾三次の「雪の夜」にも描かれ、当時は全国的にも有名な町だったのです。
この宿場の旧本陣前に、19世紀初めの安政年間に建てられ、今もその姿をとどめる旧上旅籠 和泉屋が残っています。
蒲原宿には、最盛期には大小合わせて40もの旅籠が軒を連ねていたそうですが、安政の大地震にも耐え、180年の時を経て今も残っているのはこの和泉屋だけです。
いにしえの風情を今に伝える和泉屋は、現在は旧東海道を散策する人々に『お休み処』として親しまれ、06年には国の登録有形文化財となりました。

IMG_3085登録有形文化財といえば、蒲原にはもうひとつ。
旧五十嵐邸。
江戸期~明治に建てられた町屋が元ですが、大正、昭和と3度の改築で洋館の外観をまとった歯科医院を兼ねた屋敷です。
ここね、非常に面白い。
広さや造作にも感心させられますが、欄間や襖絵、床の間の部材など、見どころは尽きません。

IMG_3021 先のNPO駿河裂織倶楽部は、その本拠を『お休み処』に置いています。
代表の朝原さんは元々は絵織物作家ですが、親子三代にわたって駿河裂織の伝承活動を続けています。
そうそう、『お休み処』ではもうひとつ出会いがありました。
東海道の道程およそ500㎞を走破する『東海道ULTRA MARANIC』を主宰する阪本さん。
IMG_3033きっと、当時の旅籠って、こんなふうにゆくりなく人が出会い別れるところだったんでしょうねぇ。

おまけは、蒲原宿『お休み処』で売っている『焼き梅』。
顔が曲がるほど酸っぱいですが、まだ夏日が続く晩夏にはピッタリです。
血液サラサラにもなるし。

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東の大王、のココロ。

70回目の終戦の夏を迎え、この夏は特に先の戦争を問うきっかけがここかしこに見られます。
当時の日本の事情によれば、天皇がやむを得ず『開戦の詔勅』をお示しになったのは1941年12月8日。皇紀でいう2601年。終戦の詔勅の約4年前のことです。
つまり、神武天皇が日本を統べて、今年で2675年が経ったとういわけなんですね。
すごいなぁ。実にすごい。

IMG_3036 しかし、皆さんご承知のように、日本が統一された年代は今の科学では正確には分かっていません。
よく耳にする『倭国』。漢の時代の書物によれば、『倭国』は紀元前200年ころには既に成立していて、その傘下に100余の国を従えていたと記されています。
少し時代が下って西暦200年前後。倭国は勢力範囲にある30余の国を女王が束ね、その都は女王の国 邪馬台国に置かれていたといわれています。
そう、女王 卑弥呼です。
この邪馬台国の所在も、歴史上の論争を生んでいます。畿内にあったのか、それとも九州にあったのか。
しかし、統一日本の母体としての存在感はゆるぎないものですが、畿内、九州のいずれにあったにせよ、それは日本の西のこと。
では、その頃の日本の東側はどんなだったのでしょう。

IMG_3038 先ごろ、ふるさとしずおかは沼津 東熊堂で驚くべき発見がありました。
国道246号線を延長し同地近くで国道1号バイパスと連結する都市計画道路、いわゆる沼津一色線の建設中、その建設予定地に東日本最大の古墳が見つかったというのです。
この古墳は、西暦200年代の前方後方墳で東国の王を祀ったものだと考えられています。
ある説によれば、卑弥呼の最大の敵、狗奴国の卑弥弓呼(ヒミココ)とも。

私は、この古墳に祀られた人物は東国の縄文人の王なのだと考えました。

ふるさとしずおか=スルガの地に、縄文人=倭人の国家が存在し、西から勢力を拡大する邪馬台国に対し、それに比肩する強大な国家を築いていたのだと。
小さな神社の境内脇に、まるで時の流れなど意に介さぬように佇む墳丘を眺め、そんな悠久の昔に思いを寄せた一日でした。

21世紀になってこんな発見があるくらいですから、もしかしたら、ふるさとしずおかは
私たちが思うよりももっともっと奥が深いのかもしれません。

FullSizeRenderさて、きょうのおまけは、沼津は大岡にある『やくみや』のワンタンメン。
大将は若いですがイイ仕事してます。
鶏と魚介のダブルスープが見事に融合。ワンタンも牛肉で手が込んでます。
どうりで混んでるわけだ。
おススメは細麺ですが、太麺もイケます。
どうか、どなたさまも急ぎご賞味あれ。

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ペリーロードとお吉、のココロ。

えー、きょうもふるさとしずおかはいいところだねぇってお話をひとつ。

ふるさとしずおかの観光地といえば伊豆半島。
いいお湯、蒼い海、蝉しぐれの山、それに新鮮な海産物。
まさに、夏休みの代名詞でしょう。
その南端近くに、幕末の一時期、日本全国の注目を集めた町があります。
下田市。
大人達のお盆休みは終わってしまいましたが、きょうは、その下田市のお話を少しだけ。

下田は、江戸の昔から廻船の風待ち湊として栄え、『伊豆の下田に長居はおよし 縞の財布が空になる』と唄われるほど賑やかな町だったそうですが、1854年に日米和親条約締結とともに開港され、59年の横浜開港までのあいだ、文字通り日本の海の玄関として歴史の表舞台に名を刻みました。
IMG_310156年、市中の玉泉寺に米国総領事としてタウンゼント・ハリスが赴任しますが、激務と慣れない日本の生活で体調を崩し看護婦のあっせんを求めます。
白羽の矢が立ったのは、当時下田一といわれたお吉という名の美しい芸妓でした。
後の人がいう『唐人お吉』です。
(写真は、八幡山 宝福寺のHPから拝借しました。)
奉公は、3日とも3ヶ月ともいわれる短い期間でしたが、このことがお吉のその後の人生を狂わせました。

IMG_3068はじめは同情を寄せていた周囲の人々も、十分な手当てを受け暮らし向きの良くなったお吉に嫉妬し、次第に侮蔑の感情をぶつけます。『お吉は洋妾(らしゃめん)だ』と。
お吉は、年季が明けた後も人々の忌避に晒されながら流転の人生を送り、48歳の時、稲生沢川の淵に身を投げ自らの一生に幕を下ろします。
右の写真は、お吉が40代になってから営んだという小料理屋 安直楼です。
下田は、開国の影で儚く散った一人の女性の足跡を、ここかしこに今も濃く留めています。

 

IMG_3062ところで、下田にはお吉以外にも歩いていける範囲に街を象徴する幾つもの観光スポットが見当たります。
かつての遊郭街は、今では『ペリーロード』と呼ばれる観光名所となりました。

平滑川沿いに700mほど続く石畳と柳並木の小道で、道沿いには古民家や石造りの古い洋館が軒を連ね、過ぎし日の風情を今に伝えています。
たとえば、陶器と喫茶の『風待』は、かつて遊女の通う蕎麦屋だったいいます。

IMG_3060ここね、実にいいお店でね。20年ほど前にも訪れたんですが、その頃はDUCATIの900SSが停めてあったりして。

しかし、この町は時がゆったりと流れているんですねぇ。
20年前とちっとも変らない。

そういえばこの町は、私たちの両親の世代には、新婚旅行の行先としても馴染深いところなんだそうです。

見渡すと、ふるさとしずおかにはいいところがいっぱいあるんですねぇ。

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大旅籠で草鞋を脱ぐ、のココロ。

えー、きょうも、ふるさとしずおかにはこんないいところがあるってお話をひとつ。

東海道の宿場は、お江戸日本橋を出発して最初が品川、次いで川崎と続き、
53番目の大津を最後に京は三条大橋の終点を迎えますが、
わがふるさとしずおかには、11番目の三島から32番目の白須賀まで、
実に22もの宿場町が存在しました。

きょうは、そのうちの21番目、岡部宿のお話。

この岡部宿。今もその姿を街道筋に残しています。

IMG_3018旧東海道を進むと、町の中ほどに本陣跡、そしてその脇に資料館として蘇った大旅籠 柏屋(かしばや)が見えてきます。
この柏屋では、当時の旅人の様子が再現され、望めば手甲脚絆に引廻し合羽を羽織った道中姿にもなれます。もちろん、髷と脇差付きで。
いわずもがな、旅籠は今でいうホテルや旅館ですが、今と昔では大違い。
当時の庶民が泊るのは決まって大部屋ですから、知らない同士が枕を並べました。
食事だって煮炊きは材料持込み。
IMG_3017しかし、彼らにとっては、明日以降の長い道中のために体を休める重要な拠り所だったに違いありません。
そして、袖触れ合うも何かの縁、ここで交差する旅人同士の縁は、まさに一期一会だったのでしょう。
いにしえの旅は厳しくもロマンチックだったんですねぇ。
大旅籠を訪れて、そんなことを思いました。

ほんと、ふるさとしずおかはいいところだねぇ。

 
IMG_2859この岡部宿から江戸を目指すと、目前に宇津ノ谷峠が立ちふさがります。
近世までは、細く険しい蔦の細道だけが峠越えの唯一の通行路でした。
切通しの峠道は今も当時の姿をとどめています。

この宇津ノ谷峠には、今も40戸ほどの集落が軒を連ねています。
宿場と宿場の間にある小さな宿を『間の宿(あいのしゅく)』というそうですがまさにこの宇津ノ谷は岡部宿と鞠子宿に挟まれた山間の小さな小さな間の宿です。今も残るこの蔦の細道を行くと、地元でも知る人ぞ知る蕎麦の名店があります。

IMG_2857『蕎麦処 きしがみ』。

きょうのおまけはこのお店。
街の喧騒を離れたいにしえの集落に佇む名店です。
蕎麦は十割、かえしはやや優しく、季節感のある食材がまた旨い。
友人藤原氏のおススメでしたが、噂にたがわぬよき蕎麦屋です。

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夢幻の如くなり、のココロ。

毎日暑いですねぇ。
しばし暑さを忘れて、きょうもふるさとしずおかはいいところだねぇって話をひとつ。

敦盛の一節『人間五十年 下天のうちを比ぶれば 夢幻の如くなり』で思い起こすのは、この舞を好んだ織田信長。
尾張で生まれ、16世紀の日本に嵐を巻き起こした天下人、近世日本のまさに大スターです。
我がご先祖様も、1575年にこの男の擁する鉄砲隊にコテンパンにやられたのでした。

IMG_2810えー、このころの日本の中心は言わずと知れた天子様のおわします京の都です。
尾張の片田舎に生を受けた信長公も、その野望の過程に上洛の計画を持っていました。
つまり、尾張から見て西を向いていたんですね。
上洛を実現し、天下人として仕上げの西国攻めに向かう前夜、京は本能寺でその50年の人生を終えたことは周知のことです。
しかし、焼け落ちた本能寺のどこにも見当たらないのです。
信長公の首級。
本当は、討たれずに落ち延びたのでしょうか。

IMG_2821 いやいや。
あったんです。信長公の首級。

なんと、それはわがふるさとしずおかは芝川町の西山本門寺に400年にわたって厚く祀られていました。
西山本門寺は法華宗興門流の本山。日蓮上人の高弟日興の建立した名刹です。
信長公の首級は、その本堂裏のヒイラギの樹の根元に塚となって今の世に伝わりました。
なにも、将門の首級のように京から飛んできたのではありません。
言い伝えでは、本能寺でともに斃れた者の一族が、炎上する本能寺からその首を持ち出し、この地に首塚を立て、ヒイラギの樹を植えて祀ったといわれています。
IMG_2818一度、行ってみるといいですよ。
澄み渡った空気と木立に囲まれた本堂が、ここを訪れる者の心を清廉にします。
場の空気が、この首塚がホンモノだと教えてくれます。
そう、行ってみるとそんな気になるのです。

ふるさとしずおかには、いろんな言い伝えがあるんですねぇ。

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越すに越されぬ大井川、のココロ。

えー、きょうもふるさとしずおかはいいところだねぇって話をひとつ。

東海道という街道は、五街道に数えられる他の街道と比べても、非常に豊かな恵まれた街道だと言えます。
IMG_2787しかし、その反面 通行の障害が少ないために、江戸期以前は人為的に都市部、特に駿河や江戸などの天領を守るために流入するヒト、モノ、カネを制限する必要がありました。
以前に話題にした各地の関所などもそうですが、ここふるさとしずおかにも天然の要害となった『越すに越せない』大河があります。
ということで、きょうは大井川の川越しのお話。

『箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川』。

IMG_2792古くから箱根に伝わる馬喰節ですが、近代にいたるまで、ふるさとしずおかの大井川はまさに『越すに越されぬ』大変な難所だったのです。
その理由は何か。
なんと、橋が無い。しかも、架橋のみならず渡し船も禁止されていたのです。
もちろん、治水技術の問題もあったのでしょうが、天領である駿府を西国の勢力から守るために、ヒトやモノの往来を制限することが目的でした。
そこで、旅人のために川越し人足が登場します。
屈強な川越し人足は、旅人を肩車したり、連台に乗せて対岸まで運んでくれますが、料金はその日の川幅や水深で変動しました。

IMG_2793川札1枚の金額は水深によって変わります。残されている資料によれば、水深が股通しで48文、帯上68文、乳通し78文、脇通し94文とあります。
旅人は、川会所で住所、氏名などを告げ川札と呼ばれる切符を買うわけですが、川札1枚で川越し人足がひとり雇えます。連台の場合は、川札は2枚。それに担ぎ手4人で合計6枚の川札が必要でした。
つまり、1文30円換算で、肩車で渡るには1,500円~3,000円、連台で渡るには安くても9,000円もかかったんですね。
そう考えると、参勤交代の大名行列なんかは一体どうやって渡ったんでしょう…。
考えただけでも恐ろしい。

島田市 川越し街道には、旧東海道筋の大井川東岸300mほどが再整備され、往時を偲ばせるいにしえの街道の風景を見ることができます。
いわゆる切符売り場だった川会所、人足の詰所だった番所、草鞋や笠の売店の荷縄所などが再現され、賑わった江戸期を偲ばせます。
ふるさとしずおかには、こういういいところがあるんですねぇ。

IMG_2843で、きょうのおまけはふるさとしずおかは葵区平和の『蕎麦処 こなや』
ここの蕎麦、旨いですよ。コシがあって香りもいい。つゆは辛くもなく甘くもなく。
天丼も丁寧です。
ふるさとしずおかは旨い蕎麦屋が多いなぁ。

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ホランさんと相良 大鐘氏、のココロ。

えー、きょうは、遠州は相良について。
いつも通りですが、やはりきょうもふるさとしずおかっていいなぁというお話。

IMG_2839相良といえば静波海岸。
実に懐かしい。私たちの若い頃は、夏はここで海水浴と決まっていましたからねぇ。
でも、残念ながら相良という町はそれ以外はあまり印象に残らないところでした。数年前には、市町村合併で牧之原市に統合されて、相良という町名も消えてしまったのです。

しかし、この相良。あらためて考えるととても良いところです。
温暖な気候で、遠浅の海は自然の恵みをもたらしてくれます。古来、相良産の塩は、この地を起点にした塩の道を通り、遠く塩尻の町まで運ばれたといいます。

江戸時代には相良藩が置かれ、藩主 田沼意次は中央の幕政にもその名を残します。
その意次は、藤枝宿と自身の居城 相良城を結ぶ田沼街道を整備しましたが、相良城を目前にしたこの古い街道沿いに、きょうのテーマ 大庄屋 大鐘家の屋敷が今も残っています。
IMG_2770大鐘氏は、元々は尾張名古屋の出自。織田家家老 柴田勝家の家臣だったそうです。24代目宗家の弟君の正典さんによれば、福井丸岡城の家老であった8代 藤八郎貞綱は、豊臣、山内と主君を変えこの相良の地に具足を脱ぎ、その後、18世紀に刀を捨て大庄屋となったのだそうです。
往時の盛隆を今に伝える長屋門と母屋は重要文化財指定。
小堀遠州の作庭による中庭をはじめ、所蔵の谷文晁、渡辺崋山の掛け軸など、この自然の恵み豊かな相良の地が、かつては遠州でも重要な地であったことを偲ばせます。

IMG_28361万坪といわれる敷地内では四季折々の花々を楽しめますが、この時期は、35種約1万本といわれるアジサイが見ごろを迎えます。
まさに、見どころ満載。
ちょうど当日は、タレントのホラン千秋さんが、BS放送の旅行番組の取材で同家を訪れていました。

しかし、これだけの歴史遺産を管理維持するのは並大抵のことではありません。
同地の繁栄を記憶する貴重な文化遺産は、将来の再興の象徴ともなる大切な史跡です。
どうか、地域ぐるみの支援で、この地が相良復興のシンボルとして長く愛されますよう。

そうそう、この大鐘家にはいくつかの名物土産があります。
その代表は『百葉茶』。
ダイエットに効果があるそうで。それに飲みやすい。一袋700円。通販でも買えます。
しかし、飲みすぎに注意。痩せすぎてしまうそうです。

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藤枝 田中城、のココロ。

ザーバーで不具合がおきてしばらく無沙汰をいたしましたが、D社のMさんのおかげでようやく復旧が叶いました。
残念なことに過去のlogの多くが消えてしまいましたが、気を取り直して再スタートします。
続・ふるさとしずおかのココロ。のはじまりはじまり。

 

IMG_2750さて、きょうは、ふるさとしずおかは藤枝 田中城のおはなし。
就職したての頃、当時はナビなんてものはありませんから、初めての客先訪問はもっぱらゼンリン地図がたよりです。
藤枝市域南部のページをめくると、田んぼの中になぜか大きな同心円がいくつか。
そう、これが田中城の跡地、同心円は四重にも及ぶ直径およそ600mの堀の遺構だったのです。

 

明治の廃城から約150年。田中城は、それまでの約500年間、同地の鎮守の要であったといいます。
城の跡地は学校や宅地、または農地として活かされ、今やその面影はありませんが、戦国の世には、今川、武田、徳川とその主を替え、江戸の世になり田中藩が置かれると、歴代の藩主のうち多くが幕政に名を連ねるような出世をしたと伝えられています。
藤枝に城なんてあったの?地元の人がこういうほど地味な存在ですが、往時の田中城が浜松城、掛川城と並び三大出世城といわれたのにはそんなわけがあったのだそうです。
そうそう。それに、ここは家康公の死去と深~い関わりがあるんですねぇ。

IMG_2754 平成になると、四重の外曲輪の南東にあった城主の下屋敷が一部再現され、『史跡 田中城下屋敷』として、観光スポットや近隣の人々の憩いの場として生まれ変わりました。
敷地には庭園が再現され、春にはアヤメやカキツバタ、初夏にはアジサイなど、それはそれは美しい花を咲かせます。
また、城の本丸櫓が移築整備され、在りし日の田中城下を偲ばせます。

1570年、武田氏がこの城を落とすと、武田四天王に名を連ねる名将 山県昌景は200騎で在番したそうです。
昌景麾下の侍大将だった我がご先祖様も、もしかしたらこの地に具足を脱いだのかもしれません。

しかし、ここ入場無料なんですねぇ。
見事な茶室も本丸櫓も観覧するだけです。
庭園や建築物を維持するには結構な費用がかかりそうです。
行政の予算には限りがあるのが見て取れます。
もっと来場客を増やして、自力で稼げないもんですかねぇ。

ねぇ、藤枝市民の皆さん。
知恵と汗を絞ってなんとかしませんか。
本当によいところなんですから。

あとね、ボランティアガイドのお二人が素晴らしい。
まさに、郷土史の生き字引。
こういう方々が元気なうちに先々の見通しを立てたいですねぇ。

IMG_2783 で、きょうのオマケは焼津は大住 十割蕎麦の『楽食庵』。
なんと、機械打ち。
手打ちじゃないなどと侮るなかれ。
老舗日本料理で磨かれた大将の確かな腕が、見事な機械打ちの十割蕎麦と出会い、瑞々しくも深い味わいの蕎麦を生み出しました。
今、一押しの蕎麦屋です。
見かけは掘っ立て小屋だけど。

 

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