ザーバーで不具合がおきてしばらく無沙汰をいたしましたが、D社のMさんのおかげでようやく復旧が叶いました。
残念なことに過去のlogの多くが消えてしまいましたが、気を取り直して再スタートします。
続・ふるさとしずおかのココロ。のはじまりはじまり。
さて、きょうは、ふるさとしずおかは藤枝 田中城のおはなし。
就職したての頃、当時はナビなんてものはありませんから、初めての客先訪問はもっぱらゼンリン地図がたよりです。
藤枝市域南部のページをめくると、田んぼの中になぜか大きな同心円がいくつか。
そう、これが田中城の跡地、同心円は四重にも及ぶ直径およそ600mの堀の遺構だったのです。
明治の廃城から約150年。田中城は、それまでの約500年間、同地の鎮守の要であったといいます。
城の跡地は学校や宅地、または農地として活かされ、今やその面影はありませんが、戦国の世には、今川、武田、徳川とその主を替え、江戸の世になり田中藩が置かれると、歴代の藩主のうち多くが幕政に名を連ねるような出世をしたと伝えられています。
藤枝に城なんてあったの?地元の人がこういうほど地味な存在ですが、往時の田中城が浜松城、掛川城と並び三大出世城といわれたのにはそんなわけがあったのだそうです。
そうそう。それに、ここは家康公の死去と深~い関わりがあるんですねぇ。
平成になると、四重の外曲輪の南東にあった城主の下屋敷が一部再現され、『史跡 田中城下屋敷』として、観光スポットや近隣の人々の憩いの場として生まれ変わりました。
敷地には庭園が再現され、春にはアヤメやカキツバタ、初夏にはアジサイなど、それはそれは美しい花を咲かせます。
また、城の本丸櫓が移築整備され、在りし日の田中城下を偲ばせます。
1570年、武田氏がこの城を落とすと、武田四天王に名を連ねる名将 山県昌景は200騎で在番したそうです。
昌景麾下の侍大将だった我がご先祖様も、もしかしたらこの地に具足を脱いだのかもしれません。
しかし、ここ入場無料なんですねぇ。
見事な茶室も本丸櫓も観覧するだけです。
庭園や建築物を維持するには結構な費用がかかりそうです。
行政の予算には限りがあるのが見て取れます。
もっと来場客を増やして、自力で稼げないもんですかねぇ。
ねぇ、藤枝市民の皆さん。
知恵と汗を絞ってなんとかしませんか。
本当によいところなんですから。
あとね、ボランティアガイドのお二人が素晴らしい。
まさに、郷土史の生き字引。
こういう方々が元気なうちに先々の見通しを立てたいですねぇ。
で、きょうのオマケは焼津は大住 十割蕎麦の『楽食庵』。
なんと、機械打ち。
手打ちじゃないなどと侮るなかれ。
老舗日本料理で磨かれた大将の確かな腕が、見事な機械打ちの十割蕎麦と出会い、瑞々しくも深い味わいの蕎麦を生み出しました。
今、一押しの蕎麦屋です。
見かけは掘っ立て小屋だけど。