ふるさとしずおかは、徳川宗家とはまことに縁が深い。
幕府を開いた家康公は、開府前後に駿府城を居城とし、最後の将軍となった慶喜公は、大政奉還後の30年を駿府で暮らしました。
数週間前、ある縁で身内が刀を譲り受けました。
室町初期の備前長船派の名工 康光の脇差です。
拵も見事なものですが、なぜか鞘には薩摩 島津家の金銀の丸十の紋が。
日本刀は、武器としてその優れた性能が評価されるだけでなく、美術品としても世界中の愛好家がその素晴らしさを認めています。
しかし、奈良時代までの日本の刀は大陸仕込みの反りのない直刀です。
いわゆる『反り』が生まれたのは平安時代。騎乗して振るうのに適していると、この時代に日本刀は湾曲した形状に進化しました。
その反りの深い『太刀』が、室町初期に反りの浅い『打ち刀』に変化します。
脇差は、そのころに生まれたといいます。
侍は、これ以降『二本差し』になったのです。
この康光の脇差は、代々、元の持ち主のお家に伝わったものでした。
しかし、なぜ島津の紋がついたこの刀がふるさとしずおかに伝わったのか。
尋ねると、そこには『なるほどなぁ~』というヒストリーがありました。
元の持ち主のお家は、二丁町で最も大きな遊郭を営むお家であったそうです。
ふるさとしずおかにその名を知られる二丁町の大籬 小松楼。
今のご当主の曾祖父にあたられる勘兵衛翁は、明治の初め、朝敵となり駿府に蟄居した慶喜公のパトロンであったというのです。
脇差は、14代将軍の継承問題のときに一橋派であった島津の斉彬公から慶喜公に献じられ、
そののち、タニマチ役のねぎらいとして慶喜公から直々に勘兵衛翁に下賜されたのです。
慶喜公がふるさとしずおかに暮らしたのはおよそ30年。31歳から60歳まで。
その間、写真・狩猟・投網・囲碁・謡曲など趣味に没頭する生活をおくったそうです。
当時世に出た自転車にまたがった写真も残っています。
そして、遊郭に出かけるときは、決まって勘兵衛翁の小松楼にあがったといいます。
こんないわれの刀ですから、大事にしないといけませんねぇ。
これも、ふるさとしずおかに伝わるたいせつなたいせつなヒストリーです。