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鞠子のまちおこし、のココロ。

IMG_3562お江戸日本橋から終点の京は三条大橋まで、現在の距離にして約500km。
ご存知のように、この東海道には53の宿場がありましたが、わがふるさとしずおかの宿場は、東の三島宿をはじめに沼津、原、吉原、蒲原と続き、西の白須賀まで実に22もの宿場があったのだそうです。
駿河府中を発ち安倍川を越えると、最初の宿場 鞠子です。
今は丸子。とろろ汁の丁子屋は、広重の浮世絵『東海道五十三次』にも描かれています。
丸子まちづくり協議会のHPによると、当時の鞠子宿は、本陣、脇本陣と旅籠24軒、民家211軒。東海道では最も小さな宿場町だったといいます。

IMG_3565その鞠子宿が、近年、往時を凌ぐ賑わいを見せています。
きょうは、そんな鞠子のお話し。
去る2月21日。鞠子宿の旧街道 見付から東見付の間およそ800mが訪れた数千人の観光客でごった返しました。
前日20日からの二日間、この旧宿場町で地域のPRを目的にしたまつりが開催されました。
丸子まちづくり協議会の主催する『丸子宿場まつり』は、今年で17回を数えます。
IMG_3569毎年この時期に開催されますが、知名度の上昇と比例してその規模は年々拡大。地元の皆さんは、口を揃えて『年々人が増えている』と誇らしげ。
なるほど、今では地域の生活道路となったいにしえの街道は、この人たちはどこから来たのか?と思うほどの人波で普段とは全く違う賑わいです。

おでんや焼きそばを売る屋台からは食欲を誘う匂いと威勢の良い掛け声が響き、財布のひもがつい緩みます。

IMG_3570このまつりの最大の見どころは、一日目の宵に行う狐の嫁入り道中と、二日目の姫様道中。
古式ゆかしい道中姿は、街道全体が江戸の昔にタイムスリップしたようです。
なんか、いいですねぇ。
丸子って、本当に良いところです。

IMG_3557おまけは、美和の美和桜。
今 満開ということは河津桜ですが、安倍川沿いの美和地区に住民の手で植えたことからそう呼ぶのだそうです。
ここもいいところです。
美和街道を北上して美和小の交差点を安倍川の土手まで。
土手沿いの約1㎞で満開の美和桜を見ることができます。

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足久保茶、のココロ。

季節が行くのはまことに早い。
寒い寒いといっていたかと思えば、立春を過ぎて何となく暖かくなってきたような気がします。

IMG_3504さて、きょうもふるさとしずおかのよしなしごとを。
『静岡』と聞いて、全国の人々がまず思い浮かべるもの。
それは『お茶』でしょうな。間違いなく。しかも煎茶。
このお茶については、生産者の後継者問題や消費者ばなれなどが話題にのぼって長い時がたちますが、それでも生産量、出荷量、耕作面積などの多くの統計が、静岡が全国一の茶どころであることを示しています。
ということで、きょうはお茶について。

ひとくくりに静岡茶といっても、ふるさとしずおかにはその産地によって異なる特徴を持ったいくつものブランドがありますから、きょうはそのなかでも静岡茶の発祥といわれる足久保茶について取り上げます。

IMG_3506足久保というところは、JR静岡駅から安倍川に沿って12㎞ほど北上したところにある山間の里です。口組といわれる南部には40年ほど前から住宅地が開けましたが、それでも中心市街地から見ると人里離れた別世界。口組みから足久保川沿いに北進し奥組といわれる北部に入ると、川沿いの集落は点々として、山の斜面に開かれたいくつもの狭小地に棚田のように整然と植えられた茶畑の畝が見えてきます。
ある統計によれば、足久保には1,500世帯、4,000人が暮らしているのだそうですが、このうちの奥組に暮らすのは僅か15%だといいます。
言い伝えによると、鎌倉時代の1200年代後半、宋に学んだ禅宗の僧 円爾(えんに、のちに聖一国師)は、晩年、ふるさとであるこの地に戻り、宋から持ち帰った茶の種をこの地に植え、栽培を始めました。
これが静岡茶の発祥といわれています。

IMG_3513それから500年ほど時代が下り、江戸時代中期の1700年代後半。
江戸初期から献上茶、御用茶として名を馳せた足久保茶でしたが、吉宗公の諸事倹約政策によって献上茶が停止となると、かつての輝きは失われました。
しかし、再び高級煎茶の製法を甦らせる男が現れます。

初代竹茗こと山形屋庄八忠実。駿府 七間町に暖簾を構える茶商でした。
ふるさとしずおかではお馴染み 『おっ茶お茶は竹茗堂』の創業者です。
初代竹茗は、長年の研究によって、釜炒り製法で作られた焙じ茶のような茶色であった茶に対し、茶葉を蒸して揉む青茶製法を復活させ、茶の持つ香味、美しい黄緑色、旨み、苦みを引き出すことに成功したのです。

足久保茶は、始祖 聖一国師、中興の祖 初代竹茗のふたりと、茶の生産にかかわる数え切れぬ人々の手によって、800余年もの間 人々の喉を潤しています。
あの柔らかな旨味の黄緑色の茶には、こんな歴史があったんですねえ。

IMG_3494初代 竹茗は、巨大な石碑『狐石』に足久保茶復活を記しました。
その碑には、芭蕉の『駿河路や はなたちばなも 茶のにほい』の一句も刻まれているといいます。今じゃあ、全然読めなくなってるけど…。

おまけは、駿河区は津島町の『お抹茶 こんどう』。
大将の近藤雄介氏は、若いのに食、酒、茶に造詣の深い、研究者でもあり職人でもある粋人。
煎茶でも抹茶でも、見事な一服をいただけます。

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伊豆山中で忠臣蔵を思う、のココロ。

時は移り変わっても、日本人の心の風景の一つともいえる『忠臣蔵』。
江戸の昔から、この赤穂事件を題材にした『忠臣蔵』は、浄瑠璃や歌舞伎を通して広く深く人々の心を捉えて離しません。
物語で語られる討ち入りは、静かに雪が降る夜でした。
内蔵助良雄に率いられた総勢四十七人の赤穂の浪士は、見事本懐を遂げ、隊列を組み泉岳寺に引き上げます。
その日 元禄15年12月14日は、現在の暦では1月30日にあたるのだそうです。

IMG_3483えー、きょうもふるさとしずおかに関するよしなしごとを。
『忠臣蔵』というと、ちょっとふるさとしずおかには縁のないもののような気がしますが、実は、意外なところにその名残がありました。
西伊豆は一色 慈眼寺。
堂ヶ島の美しい海岸を右手に国道136号線を南下し、西伊豆町浜橋交差点を仁科川に沿って東に進みます。
四十七士の唯一の生き残り寺坂吉右衛門信行の墓と伝えられる地蔵は、この小さな山間の寺にひっそりと祀られています。
吉右衛門は、主家である浅野家の直臣でしたが、士分ではなく足軽だったといいます。
史実の赤穂事件はいまだに謎が多く、全容が明らかになっていませんが、この寺坂吉右衛門なる浪士は、吉良邸討ち入りのち行方をくらませます。
上野介の首級を掲げ泉岳寺へ向かう隊列には、すでにその姿は無かったといいます。
何故か?
このことも、300年以上たった今も謎のままです。

IMG_3443一説によると、吉右衛門は内蔵助の密命を受け、残された家中の者の救済に余生を捧げたといいます。
武士の世は本懐を遂げたら潔く腹を切るのが習いですが、内蔵助の命は、武士として生きた者には死を選ぶよりも過酷なものでした。
卑怯者と誹りを受けながらも、助けを必要とする誰かのために生き続けるのです。

その説に基づいた映画があります。
『最後の忠臣蔵』。
IMG_3482佐藤浩市が吉右衛門を演じ、内蔵助より更なる密命を受け逐電した藩士 瀬尾孫左衛門を役所広司が演じました。
もっと自由に幸せを求める生き方はできなかったのかと、やりきれない思いを抱く一方で、誰かのために命を賭して生きる清廉さを感じます。
もしかすると、武士という身分は決して特権階級ではなく、むしろ、がんじがらめの非常に生きるのが難しい人々だったのかもしれませんな。
平成人には、あのような生き方はできますまい。
吉右衛門の墓と伝わる地蔵に手を合わせ、そんなことを思いました。

IMG_3481ちなみに、西伊豆にはもう一つ慈眼寺という名の寺があります。
こちらは、宇久津の海辺近く。
どうか、お間違いの無いよう。

きょうのおまけは、西伊豆田子地区名産の塩鰹を使った『しおかつおせんべい』。
やめられないとまらないの美味さです。

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