大雪も過ぎて、暖かいふるさとしずおかもすっかり寒くなりました。
世間はクリスマスをひかえて忘年会ラッシュですな。
えー、そんな浮かれ気分を横目に、きょうもふるさとしずおかのよしなしごとを。
江戸の昔、我が国はいくつもの「藩」と呼ばれる一種の「国」に分かれていました。
改易、廃藩などでその数は時代によって異なりますが、その総数およそ300。
知行地の石高 1万石以上を大名というそうですから、江戸期には300以上の大名家があったということです。
これはもう大変な数です。
ちなみに、この「石」という単位はコメの生産高を表していて(1石は150㎏、ちなみに、勢力にして1万石=235人なのだそうです)、藩の規模は1万石から100万石。当時の日本の総石高は3,000万石だったといいます(3,000万石は450万t。ある調査によると、2013年の国内の米の生産高は、1,100万t。実に3倍近く!)。
ところで、この藩。
薩摩藩、長州藩などの名はよく耳にしますが、ふるさとしずおかに「駿河藩」は存在したのでしょうか?
実は、江戸期を通じて、初期の一時期を除き、ふるさとしずおかの中心部 駿府には藩はおかれず、天領、つまり幕府直轄の時代が明治まで続きました。
地理的に西国の勢力から江戸を守る要所に位置したことや、家康をはじめ徳川の宗家に連なる血と関りが濃かったことが理由ですが、それでも、その天領に隣接する地域には小さいながらもいくつかの藩が存在していました。
駿府をぐるりと包み込むように、東は小島藩、沼津藩、西は田中藩、相良藩、さらに横須賀、掛川、浜松と、実に7つもの藩があったといいます。
そこで、きょうはそのうちのひとつ「小島(おじま)藩」についてのお話し。
国道1号線バイパスを興津から国道52号線に入り、山梨県に向けて5㎞ほど北上すると、街道筋に「小島陣屋」の案内板が見えてきます。
当時、幕府の定めた軍役令では、城を持つことが許されるのは2万石以上の大名で、1万石の小島藩は城を持つことができませんでした。
そこで藩は、「陣屋」と呼ばれる行政庁をこの小島地区に整備しこれを本拠とします。
とはいえ、1万石といえば1,500tのコメを生産するわけですから、その支配の及ぶ範囲は、現在の静岡市域のうち、西は安倍川以東の中心地を囲む地域、北は平山、南は中島、東は清水区に及ぶ広大なものでした。
陣屋跡も、立派な石垣が組まれ、戦に備えた枡形虎口の跡も見られます。天守や堀があれば立派な平山城といえるような造りです。
陣屋跡から眼下を眺めると、山間の村落は東に流れる興津川に向かってなだらかに下ります。
ここが、古の県庁かと思うと、200年のうちに世の中は随分と変わったんだなぁと思います。
そして、きょうのおまけは、国道52号線沿いのスイート遠藤のどら焼き。
創業40余年の老舗和菓子店です。
このどら焼きね、まことに美味しゅうございます。イチゴクリームや抹茶味など全5種類。
甘さ控えめでどれもよし。
しかも、ひとつ140円。
同店訪問は30年越しの願いでした。
遠藤さんといっても親戚じゃないけど。